1882年にオーストリア・ウィーンでフィギュアスケート初の国際大会が開催されて130年以上の歴史が刻まれた。世界選手権は1896年に始まり、五輪と合わせて、長い歴史を誇るフィギュア界には、これまでさまざまな事件が世界を騒然とさせてきた。世界フィギュア界の事件簿を紹介する。

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1961年2月14日。その日はバレンタインデーだった。ニューヨークのアイドルワイルド空港(現JFK空港)を飛び立ったサベナ航空548便は、順調な飛行を続けていた。乗客62人、乗員10人、計72人は、それぞれの思いで、到着地のベルギー・ブリュッセルを目指していた。

乗客の中には、米国代表のトップスケーター18人、その家族にコーチ、役員、審判ら16人、計34人がいた。同22日からチェコスロバキア(現チェコ)のプラハで行われる世界選手権に出場するためだった。


61年4月、搭乗前に笑顔を見せるフィギュアスケート米国代表の選手とコーチ陣(AP)
61年4月、搭乗前に笑顔を見せるフィギュアスケート米国代表の選手とコーチ陣(AP)

米国は当時、フィギュア界を席巻していた。シングルだけ見ても、世界選手権の男子は48年にバトンが米国に初めて金メダルをもたらした後、59年まで米国が12連覇。女子も55年から6年連続で金メダルに輝いた。冬季五輪でも、男子は48年から4大会連続、女子は56、60年ともに米国勢が制した。

そして、60年スコーバレー五輪の男女金メダリストが引退。新世代に、米国フィギュア栄光の歴史は受け継がれる時だった。搭乗していた1人、ローレンス・オーエンは当時、まだ16歳だった。61年1月の全米選手権を制し、「次代の五輪女王」と呼ばれ、64年インスブルック五輪での金メダルが期待されていた。その若さと愛くるしさから、同年2月のスポーツイラストレーテッド誌の表紙も飾っていた。

18人の内、まだ10代の選手が11人もいた。米国フィギュア、世界のフィギュア界の未来を背負う若者たちだった。しかし、その希望は、一瞬のうちに消え去ることになる。サベナ航空548便は、ブリュッセルに向け、最終着陸体勢に入ったが、空港に小型機がいたため、いったん着陸を諦めた。再び上昇し、旋回した。

2月15日午前10時5分。コントロールを失ったボーイング707の機体はきりもみ状態となり、空港から約3キロの湿地帯に墜落した。米国代表フィギュア選手を含む乗客乗員72人全員が亡くなった。機体の残骸の中で、あのオーエンが表紙を飾ったスポーツイラストレーテッド誌が燃えていたという。


61年2月、ブリュッセル近郊に墜落したサベナ航空機(AP)
61年2月、ブリュッセル近郊に墜落したサベナ航空機(AP)

国際スケート連盟は、同年の世界選手権を中止。当時のケネディ米国大統領は「国際スポーツ界にとって最大の悲劇」と声明を出した。それ以降、米国は五輪のシングルで、男子は84年サラエボ大会のハミルトン、女子は68年グルノーブル大会のフレミングまで、金メダルから遠ざかった。(敬称略)(2017年11月29日紙面から)