1992年(平4)バルセロナ・オリンピック(五輪)柔道男子71キロ級金メダルの「平成の三四郎」こと古賀稔彦氏が死去した。53歳だった。

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古賀氏は幾多の名勝負を繰り広げた。中でも、悲願だった金メダルへの道のりは、壮絶だった。当時を振り返る日刊スポーツの特集記事(2011年8月2日付)から、その伝説に迫る。

「平成の三四郎」古賀稔彦の金メダル獲得への道は壮絶だった。24歳で迎えた2度目の五輪、92年バルセロナ大会。柔道71キロ級代表の古賀は、78キロ級代表の吉田秀彦とのけいこ中に左ひざを負傷した。7月20日、市内の練習場だった。古賀の足が滑って、合計150キロの体重が古賀の左ひざにかかった。靱帯(じんたい)損傷で全治1カ月。練習場が畳ではなく、滑るマットだったための事故だった。2人を中学から指導し、五輪でも担当コーチだった吉村和郎は振り返る。

吉村 直前の5月に左腓骨(ひこつ)を痛めていた(吉田)秀彦が(古賀)稔彦とけいこしたいと言ってきた。ケガする危険があるから代表同士の乱取りなどありえないけど、吉田のために認めた。ケガをした稔彦も大変だったけど、させた秀彦のショックも大きかった。中学からずっと一緒だから、なおさらだよ。

柔道の私塾、講道学舎の先輩後輩だった2人は、選手村でも同部屋だった。首脳陣は部屋を別にしようとしたが、吉村は「別にしても、いいことはない」と反対した。吉田は歩けない古賀の足になった。患部を冷やす氷を取り換えるなど身の回りの世話もした。気分転換に古賀を自転車に乗せてビーチにも行った。

吉田 古賀先輩は減量も大変で、毎日カロリーメイト1本だけ。それでも、絶対に弱気は見せなかった。「大丈夫だから」って。普通じゃないですよ。絶対無理だと思った。練習どころか、歩けないんだから。一番つらかったのは自分が金メダルを取った夜。試合前日の先輩と顔を合わせるのが嫌で、リビングで寝た。

7月31日、古賀は痛み止めの注射を6本打ち、ケガ以来の柔道着に袖を通して畳に上がった。冷やしすぎた足は凍傷のようになり、指の感覚も鈍っていた。ぶっつけ本番だったが、勝ち進んだ。決勝のハイトシュ(ハンガリー)戦は一進一退。古賀の勝利を示す赤旗が3本上がった。

古賀 負けたソウル五輪から4年間、自分にうそのない練習をしてきたからこそ「金メダルがとれる」と信じられた。左足が動かなくても勝てるだけのけいこはしてきた。勝つ自信もあった。今思えば、雑念が消えて試合に集中できた。逆境が力になったんです。

壮絶なドラマは、吉田と古賀の金メダル獲得でハッピーエンドで終わった。しかし、あまり知られていない続きがある。吉村は帰国した2人を連れて、かかりつけの病院で精密検査を受けさせた。結果は驚くべきものだった。あれから20年近くたった今、吉村は衝撃の事実を明かした。

吉村 秀彦の腓骨が折れていた。あいつは、折れた足で全試合一本勝ちで優勝したんだ。そして稔彦。「普通なら歩けないケガなのに」とあきれていた医者が、もっと驚いて言ったのは「胃に穴が開いています」。強烈なストレスで胃潰瘍になっていたんだ。稔彦も人間だったってことかな。

古賀自身は、その事実を口にしない。しかし、体だけでなく、心も痛めていたことは紛れもない事実だ。「平成の三四郎」の金メダル獲得は、心身ともにギリギリの状態で成し遂げられた伝説だった。

(敬称略、年齢などは当時のもの)