日本の女子体操界に一時代を築いた池田敬子さんが13日、死去した。89歳だった。

日本女子が初出場した1954年(昭29)の世界選手権(ローマ)の平均台で金メダルを獲得して脚光を浴びた。五輪には3度出場して64年東京大会では団体の銅メダル獲得に貢献した。全日本選手権10度優勝。引退後はジュニア世代の育成に尽力し、多くの日本代表選手を育てた。02年に日本女子で初めて国際体操殿堂入りした。

池田さんは地元広島で10歳からバレエを学び、三原高1年で体操を始めた。52年の日体大進学後に才能が開花。53年の全日本選手権で初優勝すると、翌54年にローマで開催された世界選手権に日本の女子として初出場した。種目別の平均台でソ連や東欧の有力選手を抑えて金メダルを獲得。19歳の無名の日本選手の大金星に世界が驚いた。

それが15年近くに及ぶ池田さんの時代の幕開けだった。バレエで培ったバランス感覚と女性ながら“体操の鬼”と言われた猛練習で、世界の第一線で結果を残した。58年と62年の世界選手権でも床と平均台で銅メダルを獲得。五輪は56年メルボルン大会から3大会連続出場。64年東京大会では団体銅メダルの原動力になった。

“ママさん選手”の先駆者でもあった。全盛時代の58年に結婚。60年のローマ五輪後に長男を出産し、その4カ月後の全日本選手権を制した。東京五輪前年の63年には次男を出産。母親になっても日本の主力選手として活躍を続けた。66年の世界選手権(ドルトムント)は、出場最高齢の33歳で個人総合と団体で銅、平行棒で銀メダルを獲得して、再び世界を驚かせた。

全日本選手権10度優勝は今も日本最多記録。ちなみに五輪、世界選手権を通じての女子の金メダリストは、17年世界選手権の床で村上茉愛が優勝するまで63年間、池田さん1人だけだった。69年メキシコ五輪代表に落選した後は第一線から離れてジュニア世代の育成に力を入れた。この頃、幼児期から英才教育を受けた海外の10代選手が台頭していた。日本にはそのシステムがなかったためだ。

池田さんは68年に幼小児童対象の体操教室を創設。76年モントリオール五輪代表の野沢咲子ら多くの日本代表選手を育てた。さらに日体大教授としての仕事のかたわら、ジュニアの全日本大会や国際大会の開催にも奔走した。体操教室は80歳をすぎても続けていた。02年には日本の女子で初めて国際体操殿堂入り。体操にささげた生涯だった。

◆池田敬子(いけだ・けいこ)1933年(昭8)11月11日、広島県三原市生まれ。旧姓田中。向田小4年からバレエを始め、三原高で体操に転向。国体で6位入賞。日体大進学後、54年世界選手権の平均台で金メダルを獲得したのを皮切りに、長く世界の第一線で活躍。64年東京五輪では2児の母として、団体で銅メダルを獲得した。引退後は池田敬子体操教室を主宰。日体大教授のほか日本体操協会副会長、NHK経営委員なども歴任した。