広島に優勝マジックが点灯。「91年C戦士エール」と題し、25年前の優勝を支えたメンバーが当時を回想しつつ、悲願に突き進む鯉にエールを送る連載を随時掲載します。1回目は当時の選手会長・山崎隆造氏(58=野球評論家)。91年シーズンは、炎のストッパー津田恒実さんが病魔に倒れた年。チームは「津田のためにも」と一丸となったシーズンだった。

 広島大学病院の裏口通路。山崎の足音が響いていた。病院関係者しか知らない薄暗い一本道だった。入院病棟へ歩を進め、階段を上がる。行く先には屈託なく笑う津田が待っていた。「選手会長だったし、仲も良かった。内緒で会いにいっとったんよ」。激闘の91年。津田とともに戦った1年だった。

 4月に検査を受けて緊急入院。チームには「水頭症」と伝えられていた。だが山崎は選手で唯一、「脳腫瘍」と知っていた。「あまりよくないところにあるというのもね」。心配で仕方なかった。眠れぬ日が続いた。だが、まとまっていくチームを見て「誰からも愛されるやつだった。すごいやつじゃ」。5月には9連勝。勝つしかなかった。

 津田の手術の日には「阪神戦だった。全員でお守りを持って挑んだ」。一時首位と7・5ゲーム差をつけられたが、諦めなかった。監督の山本は「津田を優勝旅行に連れて行くぞ」と音頭をとった。主に5番を打っていた33歳の山崎も「そろそろ引退を考えていた。やめる前に勝ちたい」と体にムチを打った。

 山崎は93年で引退し11年まで指導者。丸、会沢ら当時の教え子が現在は主力だ。「俺の責任もあって、なかなかいい思いを出来んかった。優勝の喜びを味わってほしい。本当にいいものじゃけえね」。チームの一体感は当時に通じるものがあると感じている。そして最後、山崎は笑顔で締めた。「あっちで津田も楽しみにしとるんじゃないかな」。(敬称略)【池本泰尚】

 ◆山崎隆造(やまさき・りゅうぞう)1958年(昭33)4月15日生まれ。崇徳時代に76年センバツで全国制覇。同年ドラフト1位で広島入団。3拍子そろった選手として黄金期を支えた。外野手で2度、三塁手で1度ベストナイン。外野手で4度ゴールデングラブ賞を受賞。打率3割超が4度。93年で現役引退し、11年まで1、2軍のコーチ、2軍監督を歴任。右投げ両打ち。