仙台から仙石線の快速に乗り、小1時間の石巻で乗り換えた。2両編成のワンマン電車に揺られ、初めての女川へ向かった。

 2つ手前に沢田という駅がある。この辺りからリアス海岸に沿って、進行方向すぐ右側が海となる。湾状の水面に黒いブイが浮かんでいる。カキの加工工場に多くの人影が見える。線路沿いには帆立て貝の殻がたくさん積んである。

 海を抜けると住宅街が広がる。新築もそのままの家も、仮設住宅もある。11月26日は快晴で、どのベランダにも洗濯物がたなびいている。初冬の日差しをいっぱいに浴び、石巻線の終点に着いた。

 白くて大きい駅舎の屋根は、白鳥が羽ばたくように緩やかにカーブしている。出ると、黒を基調とした新しい商店街が待ち受けていた。どちらも著名な建築家が設計したという。モダンな一本道を150メートルほど歩くと、もう海に当たった。視界を遮る物はない。大漁旗をたたえた漁船が静かに揺れていた。左の山からはにぎやかな音が聞こえた。ショベルカーが一生懸命に土を整え、平地を作っていた。

 駅に戻り、15分ほど山側へ歩いた。小高い丘の上に中学校があった。徐々に傾斜がきつくなり、最後は結構な坂道。少し汗をかいて学校の正面に着くと、「女川いのちの石碑」と彫られた石碑があった。題字の下には「もし、大きな地震が来たら、この石碑より上へ逃げて下さい。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出して下さい。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き留めて下さい」。町内のあちこちに建てていくという。

 女川で思い出す。震災時、楽天は仙台を離れていた。3月13日は川崎市のジャイアンツ球場を借りて練習した。駐車場の端っこに灰皿があり、その脇に階段がある。高須洋介内野手(当時35=現DeNA2軍チーフ打撃コーチ)が身をかがめ、1人で腰掛けていた。練習は始まっていた。

 もの静かで優しい高須は、若いチームで信頼が厚かった。「女川はどうなっている」と、珍しく大きな声で聞かれた。「分からない」と答えた。「知り合いがいるけど、誰とも連絡がつかない。原発は? 仙台のみんなは? とても野球をする気持ちになれない」。チームをまとめる立場な上に、プロ野球選手会の副会長という要職も務めていた。複雑な心境を垣間見た。被害の状況が明らかになり、女川という地名がずっと頭に残っていた。

 高須が心配した町民は実にたくましかった。憎い海は一方で、豊かな恵みをもたらしてくれる。勇気を出して共生を選び、開発を推し進めた。海が見えなくなる防潮堤をあえて作らず、土台をかさ上げし、駅を中心とした商業圏を作った。生活圏は高台に移してハッキリと線引きし、その上で未来へ石碑を残し、教訓を刻んだ。

 5年後の女川商店街を歩いた嶋は言った。「海が近い。6メートルほどかさ上げしたと聞きました。すごいな、と。僕が逆に元気をもらいました。優勝ですね」。彼は「見せましょう、野球の底力を」のスピーチで一躍有名になったが、高須と同様、何をすべきか、どうあるべきか日々、悩んでいた。市井の底力はプロ野球選手を揺さぶる。互いに寄り添う形が東北楽天らしくていい。【宮下敬至】