元プロレスラーで、鬼コーチとして数々のトップ選手を育てた新日本プロレス顧問の山本小鉄さん(本名山本勝)が28日午前6時42分、低酸素性脳症で死去した。68歳だった。静養先の長野・軽井沢町でのどに異変を訴えて24日に入院。28日早朝に呼吸困難を起こして心肺停止状態となり、息を引き取った。山本さんはアントニオ猪木(67)とともに1972年(昭和47)に新日本プロレス旗揚げに参加。引退後は「鬼軍曹」と呼ばれる熱血指導で、前田日明、武藤敬司ら名選手を育てた。通夜・告別式は親族、関係者のみで行われる。喪主は妻ミツ子さん。

 あまりにも突然の訃報(ふほう)だった。山本さんは28日朝、呼吸困難に陥った。医師も処置を施せぬまま、同午前6時42分、低酸素性脳症のため死去した。関係者によると、亡くなる4日前の24日にのどに異常を訴え、入院したという。特に問題は見つからなかったが、体に何らかの異変が起きていた可能性が高い。

 直前まで元気いっぱいだった。2週間前の新日本のG1クライマックスの打ち上げでは、生ビールをジョッキ10杯も飲み干していたという。先週も新日本の道場で40キロのバーベルを両手に持ち、若手とともに汗を流していた。5キロの散歩が日課で、激しいトレーニングも欠かしたことはなかった。引退から30年たった現在も、現役時代と変わらない張りのある体を維持していた。年に70~80回こなす講演の日は、「体を見せて元気づけるんだ」と、朝は必ず新日本道場に向かった。

 死の予兆は見当たらなかったが、新日本道場管理人の小林邦明氏は先週会ったとき、ある不安を抱いていた。113キロほどの体重のある山本さんの太りすぎが気になり「20キロくらい落とした方がいいですよ」と減量を勧めた。山本さんは「死んだら死んだときだよ。ははは」と豪快に笑い飛ばしたという。小林氏は「『これから軽井沢に行くんだ。楽しみだよ』とうれしそうに話していた。やっぱり少しやせてほしかった。それが残念でならない」と悔やんだ。

 力道山最後の弟子で、日本プロレス時代は、星野勘太郎とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」で活躍したが、華のあるタイプではなかった。72年の新日本旗揚げ参加後は、年下の猪木を縁の下から支えた。170センチと小柄な体をカバーするため、人の倍以上のトレーニングで体を膨らませた。前座を黙々とこなし、若手を育てるという、自分の役目に徹した。

 注目を浴びたのは、マット上より、道場での「鬼軍曹」ぶりだった。現役時代から鬼コーチとして、前田日明、藤原喜明、高田延彦、船木誠勝ら若手を鍛え上げた。2000回以上のスクワットを命じられた選手の下には汗の水たまりができたという。かつて「4時間かけてスクワット7000回したこともある。自分がやってきたから、人にも厳しくできる」と話したことがある。厳しい指導がトップ選手を育て、新日本黄金期の礎になった。

 「プロレスは最強」。元「鬼軍曹」はプロレスラーとしてのプライドが強かった。死の直前までの猛トレーニングも、その強烈な自負からだったが、予期せぬ病には勝てなかった。