肺炎のため、5日に78歳で亡くなった吉本新喜劇の全盛期を支えた喜劇俳優、花紀京(はなき・きょう)さんの告別式が7日、大阪市内の葬儀場で行われ、弟子だった間寛平(66)や、新喜劇時代の後輩、西川きよし(69)ら、約50人が出席した。

 吉本興業に入り、セリフもない新喜劇の通行人役でスタートしたきよしにとって、すでに座長だった花紀さんは偉大な先輩だった。

 「通行人でセリフもありませんから、何かやったろう思うて、舞台袖に入る前にこけてみたり。すると、花紀さんから『芝居の流れに邪魔になることはするな』とえらい、もう、しかられました」

 ギャグに頼らず、あくまでも芝居の中でボケ、笑わせるスタイルを大事にした花紀さんに、芸の基礎を教わった。その芸は「誰にもまねることはできない、抜群の間、空気感のボケでした」と振り返った。

 舞台上だけではなく、楽屋でも学ぶことは多かった。花紀さんの化粧前(台)に「難しい本がようさん、並んでまして。哲学やら、世界史やら、戦争の本もありました」といい「人間を磨いて、いろんな知識がないと(芸人は)あかんと学びました」と、仕事への取り組み方も教えられた。

 一方では、厳しいだけではなく、優しさも感じた。きよしが、故横山やすしさんと漫才コンビを組むことになった際、これを知った花紀さんから「漫才やるんやったら、上方漫才を作ったエンタツ・アチャコを知らなあかん。エンタツに会わないかんやろ」と声をかけられた。

 きよしは66年に漫才デビューする前の大みそか、花紀さんの父、故横山エンタツさんに会うことができたという。当時、すでにエンタツさんの体調は良くなかったが「漫才とは何か、上方漫才の話、いっぱい、2~3時間ぐらいしゃべっていただきました」。

 エンタツ・アチャコといえば、それまで和装だった衣装をスーツに替え、マイク1本で2人が掛け合うしゃべくり漫才、上方の伝統芸を生み出したコンビ。花紀さんのはからいで、エンタツさんの思いを聞き取って、やすしさんとマイク前に立ったきよしは、その後、漫才ブームで頂点を極めた。

 きよしは「今日は、花紀さんに『お父さんに会わせてくれてありがとうございました』とも言ってきました」と話していた。