上方落語協会の6代桂文枝会長(72)が15日、大阪市北区の同協会会館で、9日に亡くなった3代目桂春団治さん(享年85)のお別れ会について会見し「我々にとってたいへんな試練だと思います」と唇をかみしめた。

 お別れの会は今月26日午前8時30分から、大阪・天満天神繁昌亭で行われる。

 文枝は66年、先代の故5代目桂文枝さんに師事。5代目文枝さんは、春団治さんや、故6代目笑福亭松鶴さん、故3代目桂米朝さんらとともに戦後の上方落語を復興させ、その功績から「上方四天王」と呼ばれた。四天王のうちでも、5代目文枝さんと春団治さんは同年で、文枝は「早くに(05年に)うちの師匠が亡くなり、うちの一門も師匠(春団治さん)に面倒を見てもらった」と言い、涙をこらえた。

 06年9月、春団治さんら四天王の悲願でもあった戦後初の上方定席「天満天神繁昌亭」がオープン。文枝は春団治さんを赤い人力車に乗せ、近くの商店街を練り歩き。赤い人力車は、初代からゆかりの“春団治の象徴”で、春団治さんも「実は赤い人力車に乗ったことがなかった。夢がかなった」と喜んだ。3代目春団治襲名の際、事情で赤い人力車が稼働できなかったといい、文枝は、春団治さんから感謝されたという。

 「去年(3月に)米朝師匠が亡くなり、四天王はすべて鬼籍に入られた」

 春団治さんの弟子、桂春之輔(67)によると、春団治さんは生前に「(葬儀は)騒がしくするな、密葬で済ませ」と言い残しており、今月11日に親族や直弟子のみの密葬で終えた。その際、春之輔ら一門は、所属事務所にも師匠の死を伝えていなかったが、文枝には「会長には言うとかなあかん」と連絡したという。

 文枝は密葬が終わった直後の11日、春団治さんの訃報を受け「昼夜の2回、高座がありましたが、気持ちの切り替えがつらかった」と話した。文枝は春団治さんの遺志を守り「会社(所属の吉本興業)にも言わなかった」と明かした。

 春団治さんとの思い出には「ひじょうに丁寧で、優しい人」。春団治さんは門弟には、普段着の着こなしや、仕事へ向かう姿勢など、私生活から厳しく指導したことで知られるが、一門外への対応は年下であっても、丁寧な標準語で会話をし、腰は低かった。

 「あるとき、打ち上げにも参加されて、たまたま私の前のお酒が空になっていて。それを見た師匠は『何しとるんや!』と、すごく怒られた。大事にしていただいた思いしかない」

 盟友の5代目文枝はすでに亡く、後輩とはいえ、文枝一門を束ねる6代文枝への敬意からの怒りだった。

 また、文枝は「着物のイメージが強いですが、あるとき、ロケの仕事で洋装でいらっしゃった。靴からネクタイまで、きっちりコーディネートされていて、ものすごいオシャレでした」とも。ファッションにも、人に不快感を与えないよう気を配った春団治さんをしのんだ。

 また、繁昌亭でのお別れ会について、弟子の春之輔が説得し、生前の春団治さんも了承していたといい、文枝は「しっかりと送り出したい」。06年の同会館オープン時、すでに6代目松鶴さん、5代目文枝さんは亡く、米朝さんは高座を引退しており、繁昌亭で高座に上がった四天王は春団治さんだけだった。

 春団治さんの弟子、桂福団治(75)や春之輔も「師匠も繁昌亭はやりやすいと気に入っていた」と話しており、春団治さんの生前から同一門と、会長の文枝が「そのときがきたら、繁昌亭から送り出したい」と、お別れの会を企画していたことも明かした。