首位を快走する阪神を率いるのが、就任3年目の矢野燿大監督(52)である。猛虎の顔となった闘将は、実は永遠のライバル巨人の選手となる可能性があったことは、意外と知られていない。

東北福祉大の矢野輝弘捕手(当時)は、1990年(平2)11月24日、運命のドラフトを迎えた。78年からこの年まで、全順位で各球団が希望選手を提出し、重複すれば抽選を行っていた。矢野を2位で入札したのは、中日、そして巨人の2球団。抽選の結果、中日が交渉権を獲得した。背番号「2」が与えられたことからも、球団の期待のほどがうかがえる。

当時の中日にはレギュラー捕手として、中村武志が君臨していた。中日在籍中の矢野は、捕手としての出場が最も多かった92年でも65試合のみ。1軍戦出場最多だった97年には通算83試合に出たが、外野手も兼任し捕手では60試合出場にとどまっていた。シーズン通算でも、そして捕手としての出場も、中村の試合数を超えたことはなかった。在籍7年間で、捕手での出場は265試合。この間769試合でマスクをかぶった難敵に、大きく水をあけられていた。

正妻の座を奪うことのないまま、矢野は97年オフに大豊泰昭とともに阪神へトレード移籍することになる。その後、03、05年の優勝の立役者となるなど、球団史に残る活躍を見せる。そしてコーチや2軍監督を経て、1軍監督へとキャリアを積み重ねていった。

ところで90年ドラフトで、矢野が巨人に入っていたら、どうなっていただろう。

当時の巨人の捕手陣は村田真一が中心だったが、中日中村ほどの絶対的な存在ではなかった。矢野が中日に在籍した7年間のうち、村田が100試合以上に出場したのは91年110試合、94年119試合、95年115試合の3度だけだ。逆に巨人では、最多出場捕手の試合数が100未満だったシーズンが、92年=最多は大久保博元75試合、93年=村田82試合、96年=村田95試合、97年=村田73試合と4度もあった(試合数はいずれも、捕手としての出場のみ)。矢野が正捕手に育つ余地は十分にあった。

巨人と阪神の間での交換トレードは、79年小林繁-江川卓など、2リーグ分立後わずか3組しか成立していない。巨人の正捕手となっていた矢野が阪神に移籍していた可能性は、極めて低かったはずだ。そうなると阪神監督への就任など、まず考えられなかったといえるだろう。

それどころか、卓越した野球理論とリーダーシップを生かし、巨人でも指導者の道を歩んでいたに違いない。となると「巨人軍 矢野監督」の誕生も、あながち無理な想像ではない。

矢野監督が指揮を執った阪神は、過去2シーズンいずれも巨人の優勝を許している。今季首位を走る猛虎にとって、2位につける宿敵との争いは避けられない。今季「幻の入団先」との戦いを制することができれば、31年前のドラフト入札の恩返しとなる。【記録担当=高野勲】

阪神対ソフトバンク 井上ヘッドコーチ(左)と話す矢野監督(撮影・上田博志)
阪神対ソフトバンク 井上ヘッドコーチ(左)と話す矢野監督(撮影・上田博志)