アマ野球担当時代、1度も話したことのない投手の名前を、何度も何度も記事に書いた。横浜(神奈川)のエースとして甲子園にデビューする前から、松坂大輔はスターだった。
98年選抜大会の1回戦・報徳学園(兵庫)の前。東京日刊の松坂担当が「松坂、150キロ宣言」の記事を出してきた。当時、150キロは、プロの投手ですら夢の球速。「大げさすぎる…」とあきれたが、実際に松坂は報徳学園戦で150キロを投げた。甲子園の「松坂伝説」の幕開けだった。
甲子園春夏連覇に臨んだ大会。準々決勝・PL学園(大阪)戦では250球を投げ抜いて、延長17回の激闘を勝ちきった。記録にも記憶にも残る投球をやりとげ、すでに十分すぎる活躍だったが、決勝・京都成章戦で史上2人目の無安打無得点試合をやってのけた。
その快投をテレビの前で見守り、画面の中の松坂に向かって手を合わせていた人が和歌山・那智勝浦町にいた。海草中(現向陽)の外野手だった古角俊郎さんだ。古角さんは59年前の夏、甲子園の中堅の守備位置から、マウンドの背番号1が同じ偉業を達成するのを見届けた。エース嶋清一が史上初の決勝ノーヒッターをやりとげた。
古角さんの長男の俊行さんによれば、自宅のテレビの前で古角さんは「松坂君、ありがとう」と泣いていたという。海草中から明大に進んだ嶋さんは、新聞記者として甲子園大会を取材する夢を見ながら24歳の若さで戦火に散った。古角さんは、海に消えた球友を思い続け、在りし日の姿を語り続けてきた。
98年夏の松坂のノーヒッターが、嶋さんの快投を歴史の中からよみがえらせた。灼熱(しゃくねつ)の甲子園で連投を重ね、決勝まで勝ち進んできた相手校を無安打無得点に封じるすごさを、松坂の投球が伝えた。1939年の夏、5試合連続完封、準決勝、決勝と連続無安打無得点試合を達成した嶋さんがどれほど素晴らしい投手であったか。松坂の投球が、セピア色の球史に色を付けた。テレビの前で古角さんが流した涙は、感謝の涙だった。
以来、古角さん父子はずっと松坂の応援を続けてきた。顔立ちは違っても、松坂の笑顔は、ロイド眼鏡を外した嶋さんの優しい顔とよく似て見えたという。
今月7日、西武球団から「松坂引退」が発表された。98年の夏、テレビの前で感謝の涙を流した古角さんのことを思い出した。【遊軍=堀まどか】