運命の歯車が動き、オリンピック(五輪)に導かれ、野球人生をほんのりと彩った-。1964年の東京五輪で公開競技として行われた野球を知る人は多くはない。元プロ野球選手の田中章氏(76)は全日本社会人選抜の一員として米国と対戦した。“オリンピアン”となり、もたらされた有形無形の財産がある。

69年、力投する巨人田中章
69年、力投する巨人田中章

田中の手元に残っているものはなかった。1964年10月11日。全日本社会人選抜の先発投手として米国に挑んだ。ユニホームは代表仕様ではなく「JAPAN EXPRESS」と日本通運のもの。もらうことなく返した。出場記念メダルをもらった記憶がある。

「あの時のメダル、どこに行ったんだろうな~。銅メダルみたいな感じ。桐(きり)の箱にメダルだけ。首から下げるヒモはなかったですね」。巨匠・岡本太郎のデザインだったと告げる。「そうだったの? 残念だなぁ。お客さんに自慢できたのに(笑い)」。木更津に根を張り、40年以上がたつ、もつ焼き屋「あきちゃん」。カウンター前に座り、主人は屈託なく笑う。

半世紀前。公開競技だが“オリンピアン”になった。神宮球場の左翼後方に国立競技場がそびえ、各国の国旗がたなびいていた。聖火台からだいだい色の聖火がゆらめく。観衆は約3万人。「物は残っていないから、あるのは記憶だけ。神宮は結構、人が入った。デモンストレーションだけど東京五輪でやれるという幸せは感じていた」。包む高揚感の記憶をたどった。

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必然で立った五輪舞台ではなかった。むしろ偶然の積み重ねといえる。人生そんなものかもしれない。それでも田中の人生のあやを感じる。甲子園出場は果たせずも千葉経済高のエースとして県大会でノーヒットノーランも経験。父から親戚だった石井藤吉郎氏がOBの早大への進学を勧められるも「もう勉強はいい」と断り、高3夏には神戸製鋼から内定が出ていた。都市対抗出場はしているが全国的強豪ではなかった。だが数カ月後に新鋭の日本通運からも入社を打診された。

「なじみのない関西に行かなくていい」。進路を切り替え、臨んだ入社2年目の64年夏の都市対抗野球。エースではなかったが、力を買われ、決勝でも先発し、初優勝に導いた。優勝チームが五輪の全日本社会人選抜の母体となったため、あれよあれよと五輪の道が開けた。「神戸製鋼だったら五輪に行けなかっただろうし、都市対抗で負けていたら選ばれるか分からなかった。運が良かった」。約2カ月後、秋空の神宮の先発マウンドに立っていた。

身長は公称170センチ。実際は1、2センチ満たなかった。米国の4番で後にメジャーで通算130発をマークしたエプスタインは190センチの大男。「日本人の中でも自分は小さかった。威圧感はすごかった。でも気持ちで負けていたら絶対ダメ。投手はいかにデカく見せるか。ふてぶてしいぐらいの態度で向かっていった」。人生初の国際試合。自然と本能がかき立てられた。

小柄ながら武器に自信もあった。直球は後にアマチュアの日本代表でバッテリーを組んだ田淵幸一から「こんな速い球は受けたことがない」と言わしめた。巨人入団後に「堀内より速い」とも、うたわれた。3回までゼロを並べる。だが4回無死一塁、高めの球をエプスタインに右翼フェンスにぶち当てられた。

【広重竜太郎】(敬称略=つづく)

72年、西鉄東尾修(左)と握手をかわす田中章。右は稲尾監督
72年、西鉄東尾修(左)と握手をかわす田中章。右は稲尾監督

◆田中章(たなか・あきら)1944年(昭19)7月20日、千葉県生まれ。千葉経済高、日本通運を経て68年ドラフト2位で巨人に入団し、中継ぎで活躍。71年に西鉄(現西武)にトレード移籍し、73年には球宴に初出場するなど初の2ケタ勝利となる11勝を挙げた。76年に大洋(現DeNA)に移籍し、77年で引退。通算300試合で36勝36敗9セーブ、防御率3・10。