高校野球秋季東北大会で、東北(宮城)が準優勝。12年ぶりとなるセンバツ出場をほぼ確実とした。

春夏合わせ41度甲子園出場の名門を復活させたのは同校OBで元巨人の佐藤洋監督、60歳。8月に監督に就任。わずか2カ月で結果を出してみせた。

シートノックを行う東北・佐藤監督(撮影・相沢孔志)
シートノックを行う東北・佐藤監督(撮影・相沢孔志)

もっとも佐藤監督にとって今回の準優勝は第1歩に過ぎない。監督就任にあたって掲げた目標は「高校野球を変える」だったからだ。

今大会、試合後のインタビューのたびに何度も訴えるように語った。

「高校野球は大人たちのものじゃない。子どもたちのもの。野球人口が減っているし、『野球って楽しいんだよ』と。みんな子どものころに好きで野球を始めたのに、だんだん苦しくなって、野球が嫌いになっていく。野球部ってどこか昔の軍隊式の慣例というのがあって、そんなものに一石を投じていきたいと思った。とにかく高校野球は大人が介入し過ぎ。野球部出身の選手について聞くと、よく言われるのが『指示待ち人間が多い』と。野球は監督のサインで動くので、指示待ち人間を育てているのかもしれない。自分で考えてプレーする。そんな自立できる選手を育てたい。そして高校野球界を変えたい」

佐藤監督は巨人引退後は国学院大でコーチを務め、埼玉県で3つの野球教室を運営。子どもたちに野球を教え、普及活動に務めてきた。その経験の中から感じたことを母校の野球部を通して伝えたい。「野球を子どもたちに返したい」、「高校野球を変えたい」、「野球界をもっと盛り上げたい」と就任を引き受けた。

就任すると大きな改革を行った。

(1)自分のことは「監督」ではなく「ヒロシさん」と呼んでもらう

(2)怒らない

(3)丸刈り廃止

(4)練習中にBGMを流す

(5)練習着はユニホームでなくてもOK。暑い日はTシャツ、短パン

(6)攻撃開始前の円陣廃止

このほか乱れていた寮生活の見直しなども行った。11年前の震災を知らない選手が多いことに気付くと南三陸町に全員を連れて行った。

指導を始めると選手から「どうすれば甲子園に行けるのか」と問われた。

「行きたかったら新幹線か飛行機で行けばいい。自分で考えなさい」と突き放した。

練習試合ではサインを出さなかった。練習メニューも選手に決めさせた。

準決勝の聖光学院戦ではこんな場面があった。

2-2で迎えた8回裏1死一塁。打順は1番金子和志内野手(2年)。金子は8回表の守備で走者と接触。足を痛めていた。

打席に向かう金子を佐藤監督が呼び止めた。

監督 送っておくか?

金子 (沈黙)

監督 打ちたいの?

金子 はい。

監督 おまえが打ちたいなら打て!

金子はものの見事に左翼席へ勝ち越し2ラン。

「びっくりした。鳥肌が立った。子ども任せでいいのかと言われればそれまでですが、やっぱり子どもが主役。まさかホームランになるなんて。子どもたちの底力に驚きました」

決勝戦の仙台育英戦。試合前、ナインに告げた。

「ここまでこれたのはみんなの力。自由にやってください。僕は寝てます」

選手の交代以外はノーサイン。3-6で敗れはしたが、一時は1点差に迫るなどスタンドを沸かせた。

就任2カ月で「センバツ当確」という結果を出した。

「子どもたちの成長に驚いています。自分は高校時代には2度と戻りたくないけど、こんな高校野球ならやってみたい。これを続けていければいいチームになるし、伝統になっていくと思います」

【デジタル編集部 福田豊】

◆佐藤洋(さとう・ひろし)1962年(昭37)6月9日生まれ、宮城県石巻市出身。東北では内野手として79年春から80年夏までの4季連続甲子園出場。3年春に8強。同期に元巨人の中条善伸投手、元西武の安部理外野手がいる。社会人野球の電電東北(現東北マークス)で捕手に転向。84年ドラフト4位で巨人入団。再び内野手に戻り1軍通算は出場97試合で打率2割5分4厘、1本塁打、6打点。92年に引退した。現役時のサイズは182センチ、82キロ。

シートノックを終えてベンチに戻る東北・佐藤監督(撮影・相沢孔志)
シートノックを終えてベンチに戻る東北・佐藤監督(撮影・相沢孔志)