昭和が終わりを告げる直前の1988年(昭63)11月1日、田中将大は兵庫・伊丹市で生まれた。駒大苫小牧高、楽天、ヤンキースと野球界のトップを走り続け、楽天時代の13年には、無傷の24連勝でイーグルスを初の日本一へ導いた。先頭を切って平成を駆け抜け、新時代へ挑む怪腕。今、何を考え、どこを目指していくのか-。

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米ニューヨーク州マンハッタン。街路樹の枝葉が少しずつ色を変える頃、ヤンキースでの5年目を終えた田中は、家族と一緒にゆったりとした時間を過ごしていた。

ワールドシリーズ進出こそ逃したものの、ポストシーズンでは地区シリーズ第2戦で5回1失点と好投。勝利投手となった。だが、その後ヤ軍は敗退。頂点にはわずかに届かなかった。勝つことの難しさは、メジャーでも、日本でも、高校野球でも変わらない。プロ野球選手として最後となる「昭和生まれ」の大物は、ひとつひとつ言葉を選びながら、柔和な表情で、駆け抜けてきた「平成」の日々を振り返った。

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田中の野球人生を語るうえで、楽天のエースとして最終年となった2013年(平25)シーズンは欠かせない。ギネスブックにも登録された開幕からの24連勝は、平成で生まれた最も偉大な記録と言っていい。

「あの年は、やっぱり特別な1年でした。なんといっても、日本一になりましたから」

第3回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)代表に選出されたこともあり、開幕投手を回避した。一方で、侍ジャパンが準決勝で敗退したため、本来投げるはずだった決勝での先発が消滅。不完全燃焼のまま公式戦に入った。

初登板は4月2日、本拠地でのオリックス戦。7回1失点で1勝目を挙げると、抜群の安定感で白星を重ねた。4月は最下位のチームも徐々に借金を返済。4勝無敗で5月の月間MVPを獲得した田中に引っ張られるように、早々と優勝争いに食い込んできた。

2カ月連続で月間MVPを獲得した6月の時点で、田中の連勝記録は「10」まで伸びていた。テレビのスポーツニュースはトップで報じ、スポーツ紙の1面を独占し続けた。

「投げるたびにマスコミの方に大きく取りあげていただいたので、周りの雰囲気の方がすごかったですよね。連勝というよりも『いつ負けるんだ』みたいな感じでしたから」

負けを覚悟した試合がある。7月26日ロッテ戦(Kスタ宮城)は、立ち上がりから本調子でなかった。2回に先制ソロを浴び、6回には井口資仁(現ロッテ監督)に通算2000安打となるソロを浴びた。それでも追加点を許さず、試合は1-2のまま楽天最後の攻撃を残すだけとなった。

神懸かったかのような反撃が始まる。押し出しで同点に追い付き、最後は女房役の嶋基宏が中前打を放ち、サヨナラ勝ちを収めた。9回まで要した球数は90球。快調なテンポが呼んだ逆転劇だった。負けが付くどころか、開幕からの連勝は14まで伸び、日本記録にあと1と迫った。

試合後、田中は「記録を意識する部分もありますけど、怖いものはないので。今日1回死んだと思って、また次しっかりやっていきたいです」とコメントしている。

エースの重圧はある。ただ、ファンやメディアから注目されることはプロとして生きがいでもあり、恐れる必要もない。野球を続けている限り、いずれは負ける日が来る。強さの根幹には、この冷静さと、俯瞰(ふかん)的な視点にある。

「自分自身の感覚としては、実は13年よりも11年の方がはるかに良かったんです。ただ、周りとは関係なく、優勝争いもしていましたし、マウンドに上がってしまえば、気持ちは切り替わって試合に集中できていたと思います。でも、いわゆるゾーンに入っていたとかじゃなくて、比較的、客観的に見ていたような気がします」

快投は続き、連勝記録を次々と更新した。7月4日に首位を奪ったイーグルスは、着実に貯金を増やした。9月26日、球団創設9年目で初のリーグ優勝を決めた。

投げるたびに「不敗神話」が続き、社会現象のように注目された1年は、巨人との日本シリーズ第7戦で感動的なフィナーレを迎える。(つづく)【四竈衛】

◆田中将大(たなか・まさひろ)1988年(昭63)11月1日、兵庫県生まれ。駒大苫小牧2年夏に甲子園優勝。3年夏は斎藤(早実=現日本ハム)と投げ合い決勝再試合の末、準優勝。06年高校生ドラフト1巡目で楽天入団。13年はプロ野球新記録の開幕24連勝をマークし、楽天を初の日本一に導いた。同年オフにポスティングシステムでヤンキース移籍。今季まで日本人初のデビューから5年連続2桁勝利。188センチ、98キロ。右投げ右打ち。夫人はタレントの里田まい。