さまざまな元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」。第6弾は、戦後最多の甲子園20勝を記録した桑田真澄氏(49=現スポーツ報知評論家)が登場します。

 1983年(昭58)夏にPL学園1年生だった桑田氏は、頂点に向けて強豪をなぎ倒していきます。

 その夏を含め、全国制覇が2度。準優勝も2度。清原和博氏との「KKコンビ」が、83年夏から85年夏まで5度の甲子園の中心にいつもいました。

 ただ、決して順風満帆な道のりではありませんでした。桑田氏の野球観が変わる敗戦もありました。そして、あの「運命の1日」の85年ドラフトも語ります。

 全10回でお届けする桑田氏の高校時代を、6月3日から13日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。


取材後記


 長い間、私にとって、桑田真澄氏は「物語の中に生きる人」でした。高校野球観戦に熱を入れ始めた学生時代、甲子園の最強チームはPL学園。2度の全国制覇に2度の準優勝、最悪の戦績が4強という桑田氏、清原和博氏のKKコンビは、高校野球のサクセス・ストーリーを体現する選手でした。

 日刊スポーツに入社してプロ野球担当になり、巨人のエース桑田氏とは同じ世界に居合わせることになりました。それでも桑田氏は、バーチャル・リアリティーの中に生きているような存在でした。そんな桑田氏と顔を合わせたのは95年1月。メジャーのSFジャイアンツが桑田氏に興味を示しているという情報が入り、母校・PL学園の行事で大阪入りした同氏を伊丹空港でつかまえました。

 初対面で唐突な質問をした記者に桑田氏は丁寧に応じ、こちらが差し出した名刺を取材の終わりにもう一度見返し、こちらの目を見て「日刊スポーツの堀さんですね? 覚えておきます」と言われました。そんなことを言ったプロ野球選手は、桑田氏が初めてでした。

 再会は07年。ヤンキース入りした井川慶投手の取材で訪れた米国フロリダ州で、パイレーツ入りした桑田氏が右足首のリハビリを行っていました。一念発起のメジャー挑戦で、オープン戦で球審と激突して重度の捻挫という不運なアクシデント。神経をとがらせていまいかと、どきどきしながらブラデントンの施設に行きました。そこで見たのは、英語のわからないプエルトリコやドミニカ生まれの若い同僚にスペイン語で話しかけ、施設近くの池の周辺でひなたぼっこするワニに驚き、ときには報道陣と昼食をともにして英語でオーダーしてくれる桑田氏の姿でした。

 内心を推し量ることは難しい。だが桑田氏は厳しいリハビリの一方で、あらゆる瞬間を満喫していました。そのときメジャーで投げることはできなくても、タンパでリハビリに励む。それもメジャーでの生活の一部。将来への糧になると。

 今回、高校時代の話を聞き、記事にしたのはそういう人でした。戦後最多となる甲子園20勝投手の栄光に包まれた一方で、不当な非難とも向き合った。厳しい環境を改善しようとした奮闘も経験という名の財産にし、桑田氏は「桑田真澄」をつくってきました。

 ライバル池田の捕手、井上知己氏の言葉があります。「出会ったことを誇りに思える友人です」。そんな言葉で桑田氏を思う知人が、桑田氏にはいます。【堀まどか】