さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第16弾は1985年(昭60)に阪神が日本一に輝いた当時の4番で現在、2軍監督を務める掛布雅之さん(62)です。

 千葉の名門、習志野で1972年(昭47)の夏、2年生4番として甲子園に出場。それが後の阪神で、ミスタータイガースに上り詰める“仕事場”での第1歩でした。その甲子園メンバーには巨人阿部慎之助内野手(38)の父で捕手の、東司さん(62)もいた不思議な縁…。また、同い年で、プロ入り後、阪神と巨人で名勝負を演じることになる江川卓さん(62)との幻の対決秘話もありました。

 そんな掛布さんの高校時代を8回の連載でお届けします。9月3日から10日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 掛布と甲子園といえば、切っても切り離せない。どこまでいっても、甲子園のイメージがつきまとう男なのだが、意外と高校時代の掛布はメディアでも取り上げられてこなかった。

 今回、「野球の国から」の高校野球編で掛布の担当を依頼された時、すぐに掛布にそのことを伝え、取材を申し込んだ。

 「普通の高校生で、普通の選手だったから、特筆するようなことはないよ」。

 そう言って謙遜していたが、取材は快く受け入れてくれ、協力していただいた。

 掛布は習志野からドラフト6位で阪神入りしている。6位とはいえ、テスト入団同然の扱いで、契約金500万円、年俸84万円。「プロで野球が出来るなら、どこでも良かった」そうだが、取材を通じて伝わってきた「甲子園愛」を考えると、ある意味、掛布の阪神入りは「天命」だったのではないか。

 練習と努力でミスタータイガースの称号を得た掛布だが、甲子園という舞台とのマッチングが、サクセスストーリーを生んだような気がする。【井坂善行】