長嶋が3年の、春季千葉県大会のこと。1953年(昭28)5月2日。相手は、安房一だった。

 この試合で、ショート長嶋は守備のミスを犯した。1回の野選が4失点につながった。7回にも失策した。敗因は明らかに長嶋の守備だった。

 長嶋 試合のたびにエラーしてチームに迷惑をかけた。やっぱりショートはね、今でも言うように野球の中心だから。その中心のショートがエラーして負けるとか。(捕れる)打球がセンターに抜けるとか。ショートは本当に難しいと思った。

 二塁を守っていた後輩の寺田哲夫は、この試合を覚えている。

 寺田 長嶋さんのエラーで負けましたね。普通エラーって打球をはじくことが多いけど、長嶋さんは違うんです。トンネルですから。

 小柄で小回りが利いた長嶋だが、成長に伴い体を持て余すようになった。動きが悪くなり、守備のミスが目立つようになった。監督の加藤哲夫も気付いていた。

 加藤 動きが悪くなったんですよ。正面の打球に弱くなった。ダッシュが利かなくなってきた。本人もグラブをたたいたり、首をひねったりね。エラーを犯すからというより、動きそのものに悩みが見えました。長嶋の悩んだ姿を見たのは、この頃しかありません。

 加藤は、長嶋の三塁コンバートを考え始めた。相談した部長の井原善一郎からも賛同を得た。長嶋は大黒柱であり、彼の一挙手一投足がチームの命運を握っていた。サードならダッシュより打球への反応で勝負できる。コンバートが、チームにも本人にも最適と考えた。

 加藤 でもね、キャプテンで4番の選手に「お前は守備が悪いからサードだ」なんて、立場があるから難しい。サードの鈴木(英美)も、サードらしい選手で代えるのはもったいない。何か機会がないかなと悩んでいました。

 加藤と井原は、長嶋にコンバート案を告げずに機会を待った。そして、その日がきた。

 53年6月14日。佐倉一は、市川、県船橋と変則ダブルヘッダーの練習試合に臨んだ。場所は、梨畑の中にある市川のグラウンドだった。

 県船橋との第1試合、長嶋はいつも通りに「4番ショート」で出場した。

 この試合で長嶋は4つの失策を犯した。はじく。トンネル。またはじく… 

 加藤は「ここだ」と思い、第2試合の市川戦のメンバー表に「4番サード長嶋」と書いた。

 加藤 よし、これならば代えられると。長嶋に声はかけていません。もうメンバー発表で「サードだ」とやりましたから。

 長嶋の記憶は少し違う。

 長嶋 エラー4つ! いや、当時はあると思うよ。とにかく、やるとエラー、やるとトンネルでね。もうサードに行った方がいいという気持ちはありましたから。それで「サードをやってみよう」と打診がボクに来て「じゃあ、ボクはサードをやります」って監督に言ってね。

 打診の有無は、今となっては確認できない。ただ、のちに日本中を熱狂させる「4番サード長嶋」が誕生したことに間違いない。コンバートが長嶋の野球人生を変えていく。(敬称略=つづく)

【沢田啓太郎】

(2017年4月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)