異様な興奮が、甲子園に満ちていた。

 先手を取ったのは、戦前予想で圧倒的な劣勢と伝えられていたPL学園。2回裏に大量4点を池田・水野雄仁から奪った。「4点を取られたとき、負けると思った。でも、4点だったらまだ取り返せるな、とも。複雑な気持ちだった。緊張感がなくなってしまって…」。83年8月21日付の日刊スポーツは、先制を許した水野の困惑を伝えている。

 2回2死二塁。1点を先制した直後だった。先発の桑田(現スポーツ報知評論家)がバットで驚かせた。水野の内角高め速球を左翼スタンド中段にたたき込んだ。

 桑田 池田戦は投げることに全精力を使うつもりで、打つ方にエネルギーを使いたくなかった。水野さんの球は速いし、あのスライダーなんて打てない。だから、自分の得意なコースだけを待つことにしました。ヤマを張ったインコースに水野さんが放った速球が来た。それがホームランになったんです。

 水野が公式戦で初めて打たれた本塁打だった。しかも、1年生に。水野の女房役だった井上知己は甲子園大会後、高校日本代表でチームメートになった桑田から「狙ってました」と聞き、がくぜんとする。

 井上 カウント0-2になって、インハイのつり球を要求したんです。その球を狙ったと言うんですよ。やっぱり賢いなって…。

 この試合、水野はPL学園に3発を浴びた。3日前の広島商戦で左側頭部に死球を受け、1日前は137球完投で、中京(現中京大中京)野中徹博との剛腕対決を制していた。死球、連投の疲労で本調子ではなかったが、4番・清原和博を4三振に封じている。だが、水野を援護すべき打線が桑田の前に沈黙する。

 井上 自分は0-7でも、9回2アウトまで勝てると思っていました。

 PL学園は前日の準々決勝で高知商に大苦戦。10-9でからくも逃げきった。桑田はアクシデントに見舞われ途中降板していた。

 桑田 甲子園大会は1日何試合もするので、試合が進むうちにマウンドがすごく掘れてしまうんです。ステップした左足がくるぶしまで埋まるほどでした。そんな状況で投げていたら右指を地面に突いてしまい、握力がなくなったことで途中降板しました。

 右手の指を打撲した翌日。桑田は不安の中でマウンドに上がっていた。ただ、そんな状況でも、自分の持ち味を生かそうと冷静に考えていた。

 桑田 自分らしさとは何かといえば、コントロール。徹底してアウトローに球を集めました。試合中、池田の打者に「またアウトローか」って文句言われました。打線が2巡3巡して踏み込んできたら、今度は内角を突いた。僕の武器は、狙ったところに投げられるコントロール。僕は130キロ台のストレートと、カーブしか投げられませんでした。でも、コントロールという武器が、僕の背中を押してくれました。

 14本の内野ゴロを打たせて完封。自在のコントロールという揺るぎない武器で池田打線を封じた。「あの試合がなければ今のぼくはなかった」と振り返る一戦。桑田は決勝の横浜商戦も7回途中まで好投。戦後初めて1年生が優勝投手になった。15歳の運命を変え、「KKコンビ」の時代が幕を開けた。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年6月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)