湾岸戦争が91年1月17日に始まった。世界に流れた速報を、蔦文也は講演会へ向かう車のラジオで聴いた。畠山を擁して夏の甲子園を制した9年後のことである。

 前日は九州北西部の離島の分校で講演した。熱心な高校野球の指導者がそこの教員で、有名な監督に来てもらい少人数の島の生徒に夢を持たせたいと考え、蔦が応じた。島から戻り、同じ地域の小都市で今度は大勢を前に話をする。分校の教員が運転する車の中でニュースは流れた。

 蔦は太平洋戦争で特攻隊員。訓練でこの地にいた時期がある。

 池田高校教諭の定年は過ぎていた。社会科を担当していた蔦の語りは間の取り方などが絶妙で、講演は「なにぶんにも名字が蔦でございますので、ツタない話になろうかと…」で始まる。講演途中には「こんな漫談みたいなことばかりしとったら、怒られる」と、聴衆を笑わせた。

 その風貌、語り口、甲子園での優勝経験などから、蔦はさまざまな土地で歓迎された。しかし、池田の野球部が全国的に話題になったのは74年にセンバツ準優勝した「さわやかイレブン」あたりから。蔦は51年に当時の池田高校佐馬地分校教諭に着任。翌年池田野球部監督に正式就任し、甲子園に初出場したのは71年夏だ。20年かかった。20年、甲子園を前に負け続けたということだ。

 畠山は思いをはせる。

 「先生(蔦)も、いつかは、いつかはと思ってやっていたのが、あれだけ長くかかったと思うんです。あの山の中ですからね、池田は。恵まれた環境でもなかったと思いますし」

 畠山も3年生の最後の夏にようやく甲子園に行くことができた。

 「徳島大会で優勝して甲子園切符をつかんだときが3年間で一番うれしかったですね。何回も出る出ると言われてなかなか出られなくって。思えば、1年の夏が大きなチャンスだった。徳島の決勝で負けていますから。あのとき甲子園に行くことができていたら、大輔(荒木=早実のエース)と一緒に1年から出ていたということになりますが、大輔のように5回は行けてないかもしれないが、3回くらいは行けていたかもしれないです」

 甲子園出場を決めた82年夏の徳島大会決勝は、徳島商との戦い。先攻の池田は序盤3回までに1点ずつ取った。しかし3回裏に3点を失い同点。

 「3-0で勝ってて、3-3に追いつかれて怒られて、それで2点取った。そのうちの1点は僕のホームランです。最後に1点加えて6-3で勝ちました。怒られましたよ、追いつかれたときは。かなり怒られましたね、ベンチの裏で」

 蔦は九州の小都市での講演をこんな話で結んでいる。「海軍の練兵場があった所に、きょう車で来るときに見ると、立派なスポーツの施設ができておった。あぁ平和になったんやな、と思うのです」。甲子園を目指す戦いは監督も選手も苦しい。しかし、平和な時代だから挑戦ができる。

 82年夏の池田の甲子園は、8月8日に静岡との1回戦で始まったが、畠山たちが球場に着いたとき、グラウンドでとんでもないことが進行していた。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)