当代屈指といわれた左腕、嶋の乱調は、意志の弱さ、制球力の欠如などさまざまな臆測を呼んだ。

 それほど衝撃的な敗戦だった。1938年(昭13)の第24回大会で優勝候補と目された海草中(和歌山)は初戦敗退。平安中(京都)に8回表時点では4点をリードしていたが、嶋の突然の乱調を引き金に、最後はサヨナラ負けを喫した。

 「嶋清一 戦火に散った伝説の左腕」を記した山本暢俊は言う。

 山本 嶋さんが甲子園で投げたフィルムは1コマしかないんですけど、それを見たら、野球をやってた人なら誰でも分かる。「これ、すごいよね」って。あの身体能力をして崩れてしまったというのは、よほどの気の弱さだったのか、と。

 その気の弱さは、何が原因だったのか。生前の写真が伝える嶋の表情は、剛腕とはほど遠い。丸いロイド眼鏡をかけた柔和な表情は、優しさ、繊細さをしのばせる。

 山本は評伝に、嶋の家庭環境についても書き記している。「深夜、日記を書いていると隣の部屋から時折、母・さとの苦しそうな声が聞こえてきた。そのたびに信子への申し訳なさと、一向に良くならないさとへの哀しさでペンを持つ手が止まった」と。父の野口権次郎の仕事は荷物を載せた荷台を馬に引かせて運ぶ「馬力引き」で、経済的には苦しかった。さらに母さとが病気で床に伏していた。嶋と2歳違いの妹信子が家事、看病を引き受け、一家の主婦の役割を幼い肩に担っていた。

 生来の繊細さ。そして、経済的な困難に加え、頼みの母が床についたきりというつらい家庭環境だった。さらに4年時の嶋の女房役は、最上級生の5年生だった。野球も勉強もでき、学校に行く前の早朝の時間に家業も手伝う親孝行な主将だった。ただ、自分に厳しい先輩捕手は、他人にも厳しかった。自身も桐蔭(和歌山)で野球に打ち込んだ山本は、優秀すぎる女房役を持った後輩エースの苦悩も推し量る。

 山本 キャッチャーが先輩だったということが大きいと思います。萎縮した部分があったと思うし、ぼく自身にもそういう経験があるんですよ、野球部時代に。

 山本の本業は教員である。さまざまな環境で育った生徒と向き合ってきた。幼少時代ではなかったが、嶋と同じように母が長く体調不良に悩んでいたともいう。経験と洞察力をもとに山本が描こうとした嶋は、自身の乱調がきっかけとなった初戦サヨナラ負けに何を思っただろう。「海草時代」の中にはこうある。

 「何んと言って御詫びしてよいやら正に腹真一文字に割き切って汚名を拭ふ可きところであった」(原文まま)

 今から80年近くも前の時代である。モノのとらえ方もまったく違う。周囲の期待を裏切った自滅を、深く受け止めていたことが分かる一文だ。

 嶋は絶望のふちに追い込まれていた。暗く沈むエース。手を差し伸べた盟友がいた。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)