1968年(昭43)夏の第50回記念大会。静岡商を準優勝に導いた「1年生エース」新浦寿夫は、大会後も野球ファンの注目を集めることとなった。韓国籍だった17歳左腕の獲得をめぐり、日米9球団が争奪戦を展開。結果、同校を中退し、ドラフト外で巨人に入団した。一連の騒動は、65年に導入されて間もないドラフトのルールを、変更させるきっかけとなった。

  ◇   ◇   ◇  

 半世紀前の聖地を沸かせた新浦は、いわゆる「野球少年」ではなかった。

 「もともと甲子園も、プロ野球もテレビで見たこともない。野球のやの字も知らなかったんだ」

 小学時代はバスケットや陸上などを経験。父永植の勧めで、中学から軟式野球を始めると、黒縁めがねの長身左腕の評判は、名門静岡商関係者の耳に届いた。経済的な事情もあり、同校の定時制に入学。全日制が終業する午後3時30分から、定時制が始業する同5時までの1時間半が、新浦の練習時間だった。やがて定時制1年を終えると、周囲の協力もあり、全日制の1年生として編入。つまり甲子園では「1年生エース」と騒がれたが、実質は2年生。同校の藤波行雄(中大を経て中日)らと同い年となる。

 初の聖地では、快速球とキレのいいカーブを武器に快投劇を演じた。決勝までの5試合で3完封、1失点完投が2回。初優勝のかかった興国(大阪)との決勝は、丸山朗との息詰まる投手戦の末、0-1で敗れたが、新浦の目に涙はなかった。泣きながら甲子園の土をかき集める仲間たちを冷静に見つめ「また来てやるという意識が強くてね。来年は(優勝旗を)取れると思っていたから(土を)持ち帰らなかった」。2年生(実質3年生)になる来年は、全国制覇できるという確信があった。

 ところが高校生新浦に「来年」はなかった。甲子園での激闘を終えると、韓国籍のため、秋の国体に参加できないことが新聞紙上でクローズアップされたのだ。また当時のドラフト規定には「獲得対象選手は日本国籍を持つ者」とあり、対象外となる新浦獲得をめぐり、MLBジャイアンツを含めた9球団が争奪戦を展開。「国体も王(貞治)さんの時(※注)から分かっているはずなのに、何で俺の時代に…。大人の世界って、いろいろとうるさいな、と思ったね」。17歳左腕は「大人の事情」に振り回されることとなった。

 新浦側は、東京で弁護士をしていた叔父の松原徳満が、代理人となり各球団と交渉。新浦が交渉の場に同席することはなかった。「本当に何も知らない。蚊帳の外というか、金魚鉢の中の金魚みたいなもんだよ」。結果、新浦は静岡商を中退し巨人入団。入団発表は9月9日で、8月22日の甲子園決勝から、わずか18日のスピード決着。この一連の騒動を機に、ドラフト対象選手規定から「日本国籍を持つ者」が消され、その後「日本の学校に所属した選手はすべてドラフトにかける」と変更された。

 後に日韓合わせて24年もの長いプロ生活を送ったが、高校生活はわずか1年半。この大会が最初で最後の聖地となったが「甲子園は、俺の野球の第1歩かな」と懐かしむ。「今は無職だけど、話があればどこでもコーチに行きます。でも70になったら、出しゃばるのはやめようかな(笑い)」。現在67歳。半世紀前に踏み出した歩みは、まだまだ止まらない。(敬称略)【鈴木正章】

 ◆新浦寿夫(にうら・ひさお)1951年(昭26)5月11日、東京・世田谷区生まれ。静岡商から68年ドラフト外で巨人入団。84年に韓国・三星に移籍。87年に日本へ戻り、大洋などでプレー。92年引退。15年秋から17年夏まで静岡商外部コーチ。日本通算116勝123敗。韓国通算54勝20敗。左投げ左打ち。現役時代は183センチ、80キロ。

 ※注 1957年(昭32)、早実(東京)の2年生エース王貞治はセンバツで優勝し、同夏の甲子園で無安打無得点を達成。しかし、中華民国(台湾)国籍だったため、同年秋の国体に出場できず話題となった。

16年4月、常葉学園橘-静岡商戦を見守る新浦氏(右)と藤波氏
16年4月、常葉学園橘-静岡商戦を見守る新浦氏(右)と藤波氏