不滅の14回連続全国代表を勝ち取った学校がある。和歌山中(現桐蔭)は第15回大会の紀和大会準決勝で和歌山商に敗れるまで、第1回から連続で全国に出場(第4回は米騒動で中止)。第7、8回大会は頂点に立った。博物学者の南方熊楠ら知の巨人を輩出し、プロ野球界にも闘将・西本幸雄(元近鉄監督)を送った文武両道校。後輩の成長を願う先輩の指導など、同校ならではの伝統をつなぐ。

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 捕手はのちに東京オリオンズ入りする大塚弥寿男、二塁・住友平、三塁・大熊忠義は阪急入りし、左翼には巨人の看板選手になる高田繁がいた。エースは怪童・尾崎行雄(元東映)。そうそうたる顔ぶれがそろった1961年第43回大会の王者・浪商(大阪=大体大浪商)。そのチームに決勝で、敢然と立ち向かったのが桐蔭だった。

 当時のチームを率いたOB監督の松嶋正治は、学生時代に全国準優勝していた。その松嶋が、尾崎の投球を見てため息をついた。

 松嶋 これは話にならん。明日、ノーヒットノーラン食らうかもしれん。

 現在87歳の松嶋は、伝説の剛腕、海草中(和歌山=現向陽)・嶋清一の投球も見ていた。

 松嶋 嶋さんの球は素直でスピードがあった。尾崎の球はスピードに加えて重みがあった。打ったって後ろに飛ぶんやもんな。

 決勝を控えた夜。選手を前に松嶋は「早く寝なさい。明日は大事な試合がありますから」とだけ告げたという。明けて決勝。

 松嶋 6回やった。6番の中谷が詰まりながらもセンター前にポトン。やれやれと思いました。ヒットは3本出たかな。

 ただ戦績、戦評は、松嶋の述懐を上回る。1-0の熱戦。エース森川勝年は浪商打線を7安打1点に抑え、内外野も懸命の守りで支えた。飛田穂洲は大会史に「その昔の和中の面影をしのばせるものがあり、願わくば名門の復活をと念じたい」と桐蔭の奮戦をたたえた。和歌山中の強さは、学生野球の父の脳裏に刻まれていた。第7、8回と連覇し、27年第4回選抜大会も制した。無敵を支えた力は学校の理解と協力、地元あげての応援態勢に加え、同校ならではの連係だった。

 松嶋 大学のリーグ戦などが終わって休みになったとき、現役の各ポジションに先輩が来てくれました。

 連覇当時の中心選手で大阪毎日新聞社入社後は選抜大会の発展に貢献し、98年に野球殿堂入りした井口新次郎や慶大、国鉄(ヤクルト)で監督を務めた宇野光雄ら大OBが強化に駆けつけた。のちの闘将・西本も、当時の所属先の社会人野球「星野組」の休みに母校でノックを打った。

 松嶋 監督1人の指導なら、もし監督と合わんかったらほったらかしにされるかもしれん。しかし名を成した先輩が自分に注目し、教えてくれる。なんとしてもやらなあかんと思うから伸びるのは早かった。

 68年卒の桐蔭20期生で現在、硬式野球部OB会長を務める新島壮(つよし)も、知識、情熱を伝えた先輩の姿こそ伝統と理解する。

 新島 こういう歴史を、和中、桐蔭の野球部はこんなんやったよと伝えていくのがOBの役割やろなと思うんです。

 かつての強さを物語る逸話がある。27年のセンバツを制し、その特典で夏休みに米国遠征。留守中に開催された地区予選に控え組が出場し、夏の全国切符を勝ち取った。今の野球部長、大松義明は逸話を伝えたときの部員の反応を語る。

 大松 おおおおって、そんな話あったんやと言ってました。興味はある、意識もある。明確にこうでこうだったとわかれば。

 新島 彼らの力になるでしょうね。

 100回連続で予選に出場を続ける皆勤の歴史は、戦禍を乗り越え、野球部が健全な活動を続ける証しだ。100回から次の200回も、桐蔭は歴史をつなぐ。(敬称略)【堀まどか】

 ◆和歌山の夏甲子園 通算120勝77敗1分け。優勝7回、準V5回。最多出場=智弁和歌山22回。