全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第15弾は、当時の甲子園のヒーローと戦い続けた三浦将明さん(51)です。三浦さんは、横浜商(神奈川)のエースとして1982年(昭57)のセンバツに、83年は春と夏に甲子園出場しました。ただ、いずれの大会も優勝には届きませんでした。頂点には立てませんでしたが、甲子園を彩った三浦さんの高校時代を5回の連載でお届けします。

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83年のセンバツと夏の甲子園で、三浦は最も長く聖地のマウンドにいた。両大会とも開会式直後の第1試合に登場。そして決勝戦で敗れた。春は池田(徳島)、夏はPL学園(大阪)の前に散った。池田には水野雄仁がいた。PL学園には1年生の桑田真澄、清原和博のKKコンビがいた。同年の横浜商を含め、同一年の春と夏に準優勝に終わった高校は12年光星学院(青森)まで5校ある。だが、春も夏も開幕戦に登場しつつ、準Vに終わったのは、横浜商しかない。

三浦は現在、愛知・刈谷市内のスポーツ用品店「スポーツデポ」でベースボールアドバイザーの肩書を持つ。そのかたわら「愛知木曽川リトルシニア」の理事を務める。名古屋市内での野球塾にも出向いて指導。小中学生に「甲子園は人生の第1歩」と説いている。そして、こうも訴える。

三浦 練習はつらい。(でも)勝った瞬間にそのつらさは一気に吹っ飛ぶ。

勝利を重ね、82年春、83年春夏と3度、聖地に乗り込んだ。三浦には大きな武器があった。

83年3月31日の日刊スポーツの見出しは「恐怖の“ET魔球”」だった。同30日の2回戦、横浜商-星稜(石川)で三浦のカーブは落差30センチあったという。その魔球を投げる秘密も以下のように記されていた。

「三浦は長さ9・7センチという『ET』ばりの長い中指を持つ。あの江川が8・2センチ、5季連続出場した荒木が8・5センチ、高校野球史上最長といわれていた(昭和)47年センバツ優勝投手・仲根(日大桜丘-近鉄)でさえ9・6センチだったのだから、お化け指。(中略)映画『E・T・』の中指は愛と感動を呼んだが、三浦の中指は星稜打線に恐怖を与える魔球を生んだ」

実はこのカーブ、三浦が横浜商を選んだことにも絡んでいる。

御幸中3年時の夏休みのことだった。横浜商の練習会に参加。三塁側でのブルペン投球を終えた後だった。レフト方向を見ると、見覚えのある外野手が立っていた。1学年上の選手で、のちにヤクルトなどで活躍する荒井幸雄だった。

三浦 (自身が中学2年生で)荒井さんが六浦中のときに、県大会の1回戦で対戦して負けた。それまで打たれたことのないカーブを、2打席連続で二塁打を打たれた。

甲子園でも武器となったカーブをことごとく打ち込まれた。そのときは苦い経験だったが、そんな強打者と同じチームで野球ができる…。練習会が終わるころには心が決まっていた。

ほかにも横浜商に進む理由があった。そこには当時の等身大の三浦が見えてくる。1つは「通学したいという夢があった。漫画みたいにつり革持って、つま先立ちしながらっていうね」と、電車通学への憧れだった。川崎市の自宅から電車を使い、約1時間半の道のりは魅力だった。さらに、練習会当日の光景にもときめいた。野球の光景ではなかったのだが…。緊張しながら横浜商の門をくぐったとき、練習しているチアリーダーに目がとまった。

三浦 初めて目の前で見て、いいなと思ったんだよね。今でも鮮明に覚えている。

他の高校にはないインパクト。そして、三浦はチアリーダーから甲子園で声援を受けるエースへとなっていく。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】

◆三浦将明(みうら・まさあき)1965年(昭40)9月17日、神奈川県生まれ。投手。横浜商では2年春、3年春夏に甲子園出場。小野和義(創価=後に近鉄、西武)、渡辺久信(前橋工=後に西武、ヤクルト)の2投手と並び「関東三羽がらす」と称される。83年ドラフト3位で中日入り。90年引退。プロでは実働4年で16試合に登板し、0勝0敗、防御率4・94。現役時代は185センチ、73キロ。右投げ右打ち。

(2017年8月29日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)