1988年(昭63)8月19日付の日刊スポーツに、こんな記事が掲載されている。

「JR甲子園口駅近くにある宿舎・かぎ家旅館。初戦を前にした日、西武清原の実父・洋文さん(50)が訪ねてきた。『和博の記録を塗り替える打撃を見せてください』。谷繁の島根県大会5試合連続7ホーマーの記録に、洋文さんは息子の高校時代の勇姿をダブらせていたのかもしれない」

谷繁 えっ、覚えていないよ。というか、本当なら忘れるわけない。もしかしたら、清原さんのお父さんは名乗らなかったんじゃないかな。いちファンのように「清原の記録を抜いて」と声をかけてくれたのかもしれない。それなら、あったかもしれない。

清原の記録とは、甲子園での1大会5本塁打を指している。この記録は今年、広陵・中村奨成が6本塁打を放って更新した。中村は、谷繁と同じ広島出身で捕手。そして広島スカウト総括部長の苑田聡彦が、中村を評する際に「今まで見てきた高校生捕手で1番は谷繁だと思っていたけど、いい勝負をする」とコメントしている。

谷繁は甲子園で本塁打を打てなかった。ただ、存在感は放っている。伊勢工(三重)との2回戦、第4打席に甲子園で初安打となる中前打を放った。そこまでの3打席は三振、投ゴロ、左飛と凡退していた。前年は第1打席の三振で「これはムリだ」と感じていた。

谷繁 前の年とは明らかに違いました。凡退していたけど、抑え込まれたとか、力不足とは感じなかった。だから打てるとは思っていました。

3回戦では強豪の天理(奈良)を6-3で破った。谷繁は2安打1打点。第5打席は左中間フェンス上部に打球を直撃させる二塁打を放った。もう少しで本塁打だった。この勝利で島根勢としては42年ぶりのベスト8入りを果たした。

準々決勝では福岡第一に3-9で敗れた。相手のエースはのちにロッテ、中日、巨人で活躍する前田幸長だった。谷繁は初回に前田から適時二塁打を放った。

谷繁 チーム力で負けたけど、個人としては「全国の舞台でもやっていける」と思えた。やり切った思いがあったから、僕は負けても泣いていない。涙は出ていませんよ。

彼を支える思考は、ここでも発揮される。幼少時から、父一夫に繰り返された言葉。「常に目的意識を持ち それを勇気として頑張りなさい」。

すぐさま次の目標はプロに定めた。京都国体の決勝で沖縄水産に敗れると、谷繁は「今、僕自身は大学に行きたいと思っています」とコメントしているが、本心はプロにあったという。ちなみに、この日は88年10月19日。近鉄がロッテとダブルヘッダーを戦い、西武の優勝が決まった。いわゆる「10・19」。阪急が、オリエント・リース(オリックス)に球団売却を発表した、プロ球界にとって激震の日だった。

数日後、セ・リーグ希望を表明した谷繁に対し、出身地の広島、巨人、大洋(現DeNA)が熱心に声をかけてきた。(敬称略=つづく)【飯島智則】

(2017年9月30日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)