日本が終戦を迎えたのは、中西が松島小学校で6年生だった年だ。すべてが荒廃し、絶望感が漂って、生きていくだけで精いっぱいだった。そんな時代に、軟式ボールで三角ベースボールに興じるのが、せめてもの「光」だった。

中西 野球らしきものを始めたのはこの頃だ。グラブも、バットもない。棒きれで打ち、素手で捕球する。担任の牧野先生から教わったもので、当時は唯一の楽しい遊びだった。私たちの心は一瞬でもはずんだ。あの当時からすると、今はさまざまなことが恵まれすぎている。それも時代だから仕方がない。

母小浪は手押し車に野菜などを積んで歩く行商をしていた。午前3時か4時に家を出て、春はタケノコ掘り、秋にはナスのへたを取り除いた。それだけで生計は成り立たないから、神戸などに遠出をしながら家族を養った。中西にとって、母の手打ちのうどん、豆腐、あげ、野菜などを調理した手料理は忘れられないごちそうだった。「怪童」と称される人間としての骨格は、ささやかなだんらんに、おふくろの味、戦禍をくぐってきた生きざまによって形成されていくのだった。

1946年(昭21)、戦災にあった高松市内で、1つだけ校舎が焼け残った高松市立第一中学(旧制)に合格する。小学時代は健康優良児、市内の学童大会の短距離走で1等賞をとるほどの俊足だった。スピード感のあるバスケットボールにも興味をもったが、先輩の柏野に勧誘されて硬式野球部に入部。硬式ボールに触るのが初体験だった中西と仲間は「本球だ、本球だ」といって騒いだ。

戦中戦後に物心ついたときから軍人志望で海軍兵学校に憧憬(しょうけい)を抱いた。そんな時代背景もあって、怪童を育てたのは「精神野球」だった。手加減のない至近距離でギリギリのところでやる集中キャッチボールでは血がにじむこともあった。ベースランニングも猛烈を極めた。

特に、高校から約1キロほどの所にロードワークにいく石清尾(いわせお)八幡宮での階段上りは、足腰が鍛えられ、強靱(きょうじん)な下半身を築く、心身の苦行だった。

中西 新入生は、水くみ、ボール拾いに、ボール磨き、ボール修理は主で、練習といえばランニング、柔軟体操ぐらいで、キャッチボールと素振りがせいぜいだった。実戦練習は上級生に限られた。満足な道具もない。スパイクなど夢の中の話だ。ただ厳しい練習に、上級生からの鉄拳、説教も当たり前の時代で、なにも不満はなかった。石清尾八幡さんでの頑張りは基本だった。あそこで千本ノックに耐えられる体力とバネが生まれた。今の人には笑われるかもしれないが、そんな心身の鍛錬が、上達の道だと信じていたのだ。

2年間の下積みが終わった48年春、学制改革で「六・三・三制度」が発足。中西の身分は高松一高併設中学3年となった。その年の秋、正三塁手に抜てきされた日、中西は泣きながらレギュラーになったことを母小浪に報告した。

翌49年春、初の甲子園出場。目の前に広がるパノラマに、少年は目を輝かせた。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2017年10月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)