気力も体力も、3日ともたなかった。08年9月下旬。高嶋仁は、智弁和歌山理事長の藤田照清に背中を押され、生まれて初めての四国遍路に旅だった。だが、徳島の1番札所、竺和山一乗院霊山寺から歩き始めて3日目で、音を上げた。

高嶋 1日目が、半日歩いただけでもうえらい(きつい)のなんのって。1日何十キロって歩いたことないやないですか。3日目に立つのもやっとっていうくらいになって電話を入れたんです。家内に「もうあかんわ」って。

夫の弱音など聞いたことがなかった紀久子は、さすがに心配になった。高嶋は当時62歳。長年の酷使で半月板を損傷した両膝の痛みにずっと苦しんでいた。「無理せんと、1回帰ってきて体調整えてから行ったらどう? まだ時間はいくらでもありますよ」と妻に帰宅を促された。ところが、その言葉を聞いたとたんに「帰れるわけないやろ」と逆に闘志を奮い立たせたのが、高嶋らしさだ。いや、もしかするとへこたれそうな心に火をつけてほしくて、愛妻の声を聞いたのかもしれない。

高嶋は出発前にあれもこれもと詰め込んだリュックを再点検した。洗面用具、シャツとパンツの替えだけ残し、あとは家に送り返した。まず体を身軽にした。

それでも思うように足は前に進まなかった。膝に加え、毎日足の裏にできるマメの痛みは想定外だった。夜、マメの水ぶくれを針でつついて中身を出し、殺菌消毒薬を皮膚の中に入れ、なんとか翌日も歩いた。予約した民宿に2度たどり着けないことがあった。断りの電話を入れた際には「そんな人がおるんで、受け入れられんのです」という厳しい返事にたじろいだ。

高嶋 そりゃそうでしょう。もうお遍路のシーズンは過ぎとるわけです。1人か2人の泊まり客のために飯を作り、風呂を沸かさなあかん。それでキャンセル言うて来たら、怒りますわ。それで飯を作ってもらう必要のないビジネスホテルのある場所はホテルに泊まるようにしたんですが、徳島を出るまでは死ぬかなと思うた。それくらいしんどかったんです。

資金調達にも四苦八苦した。お遍路姿で1カ月超の生活費を持ち歩くわけにはいかず「小さな町にも必ずあるから」と夫人の勧めで郵便局のキャッシュカードを作った。これで大丈夫と安心していたら、なんと暗証番号を忘れてしまった。

高嶋 「なんでどこかに書いとかへんの!?」って嫁さんに怒られて。そんなんやったことなかったんで。学校は現金支給。結婚以来、給料袋の封を切ったことがなかった。封筒ごと渡して、そこから小遣いやら入り用をもらっていたから。自分の給料がなんぼかも知らんかったんです。

どれほど生活が仕事と野球に占められていたかを、思い知った。

新しかったスニーカーはすり切れ、石が入ってコロコロ鳴った。山道ではふらつき、危うく滑り落ちかけた。「だから白衣を着とるんか…。死んだらこのまま納めてもらえる」と着衣の意味を知った。金剛づえにすがり、はうように歩いた徳島の遍路道。それでも高嶋は歩き続けた。不敗を誓った人生を表しているかのようだった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月8日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)