社会人の強豪で静岡県富士市にあった大昭和製紙富士に入社した我喜屋優は打ちひしがれた。沖縄にはない電車通勤は新鮮だったが、ノンプロのレベルの高さに、いきなり挫折感を味わった。

我喜屋 おそらく甲子園で大声援を浴び、興南旋風で沸かして舞い上がっていたんでしょうね。あれが人生初の挫折でした。

しかし、静岡では貴重な出会いにも恵まれた。「アジアの鉄人」と称されたハンマー投げの室伏重信らと合宿所が一緒で、厳しい練習に取り組む姿勢を目の当たりにし、トレーニング、食事など自己管理についてアドバイスを受けたのは宝物だった。

ただ、我喜屋の人生は、また違う土地で紡がれていく。入社4年目に北海道への転勤を命じられた。大昭和製紙の工場がある北海道白老郡白老町にも野球部があったが、沖縄から内地に出た我喜屋にとっては思いも寄らぬ異動だった。

我喜屋 千歳に着いたときは「なんでこんなところに来たんだろう」と寂しくなった。沖縄は気温がマイナスになることもなかったので、北海道の雪を見て驚きました。でも冬眠型の室内での練習では勝てないと思った。室内でのスイングはいい音がするからだまされる。自分の力は外で風を切る音で分かる。雪が積もっているならどければいい。私は吹雪のなかを走って、雪玉で遠投をした。

1973年(昭48)大昭和製紙北海道の主力として都市対抗大会でベスト8入りを果たすと、第45回となった翌74年の同大会では優勝。高校、大学、社会人を通じて、北海道のチームが優勝したのは初めてだった。

我喜屋 私と一緒で本社から飛ばされたチームメートが何人もいたし、厳しい練習をやった。絶対に内地の本社には負けてたまるかと思っていました。

現役を退いた我喜屋は監督の座に就き、その後、後身のクラブチーム「ヴィガしらおい」も率いた。

北海道を引き払って、沖縄に戻ることになったのは大きな転機だった。駒大苫小牧監督の香田誉士史からアドバイスを求められる縁もあった。06年夏の甲子園は駒大苫小牧と早実の決勝戦。田中将大と斎藤佑樹の投げ合いを、親交のあった橋本聖子とアルプススタンドで見届けた。早実が4-3で優勝した閉会式直後、阪神甲子園駅に向かっていると、携帯が鳴った。興南理事長の比嘉良雄からの監督要請の電話だった。

我喜屋 北海道で永住するつもりで土地も買っていたし、白老町への愛着もあった。でも、妻の万里(まり)も、長女里(のり)、次女尚(なお)の2人の娘も道産子なのに、沖縄行きを反対しなかった。妻からは「あなたはネクタイをしているより、お酒を飲みながら野球談議に花を咲かせているほうが輝いている」と言われました。

我喜屋は38年ぶりに母校興南に戻った。夫人は野球部の寮母で、子供たちの栄養、生活を管理する。幾度も逆境を乗り越えてきた男は、故郷の南国に舞台を移して、再び花を咲かせていく。(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2018年2月4日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)