監督就任から1年後の91年、28歳の中井哲之は広陵をセンバツ優勝に導いた。

中井 今思えば、若いし、怖さがなかったですね。采配にしても選手起用にしても、思ったことそのままやってやろうと思ったんです。決勝まで全部打順が違うんですよ。

その年の秋季中国地区大会も優勝し、92年に2年連続でセンバツ出場。しかし、そこから甲子園は遠い場所となる。次に甲子園に出場したのは00年センバツ。秋季中国地区大会には、92年から98年まで7年間で4度も出場したが、4強や8強止まり。「あと1勝」の壁を破れなかった。中井も苦しんでいた。勝っていた頃の試合を見直し「今の俺ならどうするんかのぉ」と、比べたときもあった。部員数を減らして鍛えてみようか、いや伸び伸びやらせてみようか。教育という大事にしてきたものを曲げ、勝利だけを追求しようかと思ったこともあった。

中井 あと1回勝ったら甲子園なのに勝てんのじゃけ。人間が育つ、育たんは(監督ではなく)親の責任じゃし、って変な開き直りが出てきて。でも(そういう考えは)出来なかったですね、それは。1日も持たん。

99年夏、広島大会の準決勝で、公立校の海田に0-7のコールド負け。またも結果は出なかった。監督交代では? そんなことを選手まで感じ始めていた。

中井 自分でも辞表を持つというか、そういう覚悟もあった。それを生徒も感じて、監督を男にする、という感じで…。

夏場の1日9時間の猛練習を乗り越え、秋の県大会で優勝。聖地から遠ざかって5度目の中国地区大会。中井の記憶に強く残る一戦が待っていた。

準決勝は雨が降り、霧がかかる、悪天候の中で行われた。4-4で迎えた9回表、走者一塁だった。広陵の攻撃で打者がとらえた球が左翼に飛んでいった。中井にはフェンス直撃打のように見えた。中井の自著「ともに泣き ともに笑う 広陵高校野球部の真髄」(ベースボール・マガジン社)の中で、当時の事をこう振り返っている。

「だが三塁塁審は、手を回してホームランを宣告している。一塁にいた走者は(中略)そのジェスチャーを確認してスピードをゆるめ、ゆっくりとホームインしようとした。だが相手守備陣は、クッションボールをすばやく処理してホームに放る。走者は、わけがわからないながらも三本間で再度スピードを上げたが、ボールとの競走になった」

判定は本塁でタッチアウトだったという。そして、こう続けている。

「なんとしても納得がいかない。どういうことだ? 高校野球では、監督がベンチから出て抗議することはご法度だから、キャプテンの河妻伸直が球審のもとに確認に行った。『塁審が、手を回したじゃありませんか』と河妻。だが耳を疑うことに、審判は言う。『手は回していない』」

中井は、「誤りを認めないこと」が許せなかった。「間違えたこと」への怒りではなかった。大雨の中、試合は続いた。選手は泣きながら打ち、泣きながら守った。中井も涙を流しながらタクトを振った。偽られたことへの悔しさがあったという。

延長10回に広陵は2点を挙げた。甲子園への扉は開いた。試合後、びしょぬれになっていた控えの部員たちが、泣きながら抱きついてきた。

中井 勝つだけの野球に徹するっていうのは出来なかった。やっぱり曲げることが出来ないから「信念」って言うんでしょうね。

控え選手を含めた全員野球、人としての教育。苦悩の先には、大事にしてきた光景があった。(敬称略=つづく)【磯綾乃】

(2018年2月15日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)