全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第11弾は、明徳義塾(高知)を率いる馬淵史郎さん(62)です。異色の経歴に、個性豊かな語り口。そして歴代5位の甲子園通算49勝を誇る実績。つらい時代も経験しながら勝利を重ねてきた馬淵さんの物語を全5回でお送りします。

高校野球の指導者の中でも、馬淵は異端とも言える道を歩んできた。社会問題に発展した「松井の5敬遠」に、部内不祥事による1年間の謹慎処分。社会人時代を含め、2度の監督辞任。受理されなかったが、辞表を2度提出した。その一方で、02年夏の甲子園優勝や昨秋の明治神宮大会制覇など勝利を積み重ねてきた。光と影のコントラストは強烈だ。そして歯に衣(きぬ)着せぬストレートな物言いに、ユーモラスな表現。「策士」とも評される勝負勘がある。それは先天的な性質か、環境によって培われたものか。

馬淵 波乱の人生よな。浮き沈みが激しい。頑張ってこれたのは、あの時代があったから。人間やったら、できんことはないと思った。

「あの時代」は神戸にあった。社会人の阿部企業に在籍した5年間。それが監督馬淵史郎の原点だった。78年3月に拓大を卒業。その後、故郷愛媛に戻り、松山で物産会社に入社。しかし、1年半で退社した。上司とケンカしたのが理由だ。続いてガス会社に入ったが、サラリーマン生活は長くは続かなかった。母校三瓶(みかめ)高の恩師である田内逸明(故人)から、声がかかった。休部中だった阿部企業が活動を再開。同氏が指揮官に就任した。「お前もこい」。コーチ兼マネジャーのポストが用意された。周囲からは「いまさら野球は…」と反対されたというが、話を受けた。

馬淵 1、2年ぐらいなら、手伝ってもええかという感じだった。オレの人生はケセラセラ。後のことは考えていない。

恩師の誘いに乗ったことが人生の分岐点になった。82年に本社のある兵庫・神戸市へ移り住んだ。1年後に思わぬ事態が起きる。田内が急逝した。シーズンオフの1月のことだった。恩師の死にショックを受けた。それと同時に、安堵(あんど)の気持ちが湧き起こった。

馬淵 これで辞められるとホッとした。田内さんがいたから、我慢してやっていた。これで松山に帰れると。

入社後、待っていたのは過酷な環境だった。阿部企業は土建業でスタートし、警備や不動産と業種を広げた。従業員は約200人。野球部員は警備の仕事がメインだった。練習時間は午前9時から正午まで。夜勤明けで眠る時間もなく、練習着に着替えた。阿部企業から後に明徳義塾の野球部長を務めた宮岡清治は苦笑まじりに振り返った。

「こんな日があった。病院で夜通し警備をして、朝から隣の明石球場で練習。気合入っとんか! と言われる。無理やろ…。寝てないのに」

練習後に床に就き、午後4時から夜勤に向かう。宮岡は24時間働きづめの感覚だったという。月給15万円程度だったが、金は残った。使うヒマがなかったのだ。労働環境と同様に、野球部を取り巻く環境も厳しかった。決まった練習場はなかった。空き地や河川敷、たまに球場を借りるなどして、転々とした。

馬淵 それで勝てと言うんだから…。劣悪よ。俺も一緒にガードマンに行った。交通整理の誘導棒を持ってね。選手が運転手とケンカになることもよくあった。「何を止めとんや!」と。一升瓶持って、謝りに行ったこともあったな。

球場を借りても、「今日は練習はせんでええ。寝るぞ」と休息に充てたこともあった。先の見えない苦しい日々。恩師の死にホッとしたのも無理はなかった。しかし、馬淵は故郷に帰らなかった。いや帰れなかった。(敬称略=つづく)【田口真一郎】

◆馬淵史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日、愛媛県生まれ。三瓶(みかめ=愛媛)から拓大を経て、いったんは民間企業に就職。その後社会人の阿部企業でコーチ、監督を務め、87年から明徳義塾のコーチに就任。90年から同校監督になった。02年夏の甲子園で優勝するなど、甲子園通算勝利数は歴代5位の49勝(30敗)。主な教え子はヤクルト森岡2軍内野守備走塁コーチ、オリックス伊藤光ら。

(2018年2月22日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)