1984年(昭59)のセンバツで、甲子園初出場の大船渡は次々と強豪を打ち破り、岩手県勢初の春4強入りを果たした。吉田亨捕手(現在48)は主将としてチームを統率し快進撃を支え続けた。だが夏にはその「4強」が逆に重圧となり、ナインにのしかかる。

84年4月、準決勝の岩倉戦でバント処理する大船渡・吉田
84年4月、準決勝の岩倉戦でバント処理する大船渡・吉田

 全国で記録的な大雪が観測された84年。春の甲子園では火を噴く打線「火の玉野球」を掲げた大船渡旋風が吹き荒れた。初戦で多々良学園、2回戦で日大三島、準々決勝では四国の雄・明徳義塾を下し3勝。主将としてチームをまとめたのが吉田だった。

 吉田 印象に残っているのは明徳戦。1-0の8回無死二塁で、けん制で二塁走者を刺した場面です。練習してきたサインプレーがずばりと当たった。今考えても初出場チームが明徳相手に冷静だったなと思う。

 2戦で完封したエース左腕金野、4戦2本塁打の4番鈴木、チャンスメーカー1番木下…。メンバーの大半は全国大会に出場した大船渡一中からの同期生だ。結束は固かった。

 吉田 とにかく明るいチームでね。練習は監督の方針で授業後から、きっかり午後7時まで。あとは自主トレです。夜に私の家からランニングして金野の家へ行って2人で走りだす。次は木下の家へ。そんな具合に人がどんどん増えていき、最後は私の家の前で私が抜け、金野が抜けて、と。よく一緒に走っていた。

 1年時から金野とバッテリーを組み、夏の県大会16強、2年夏に8強。その秋に県優勝、東北大会も制しセンバツを当確にした。甲子園に乗り込む前には発奮材料があった。

 吉田 新聞の戦力分析で我々はC評価でした。みんな港町生まれだから負けん気が強くてね。やってやるぞ、と燃えました。

 下馬評を次々と覆しての4強は、全国に「大船渡」の名を知らしめるとともに、当時人口5万人の大船渡市民を熱狂させた。

 吉田 私たちはユニホーム姿のまま阪神電鉄で甲子園に通っていたんですが、勝ち上がるごとに多くの人が「頑張れ」と声を掛けてくれた。大船渡の様子は分からなかったが、注目されていることは実感できた。

 準決勝では岩倉と激闘の末にサヨナラ負け。帰郷後初めて、地元のフィーバーぶりを知った。

 吉田 駅のホームの端から端まで出迎えの人でした。すごいことをやったんだと、あらためて感じた。

 だが夏に向けては、それまでと違う環境に戸惑った。町の中をランニングすると常に期待の声がかかった。時にはサインも求められた。「負けてたまるか」が、いつしか「負けられない」に変わった。夏こそ大旗を-。大きな期待を背にしたプレッシャーは春にはなかったものだ。迎えた夏。県大会は制したが、甲子園は初戦敗退した。

 吉田 もう春とはまったく違うチームになっていた。浮足立っていたというか。負けた時も、悔しさより肩の荷が下りたような安堵(あんど)感の方が大きかった気がします。

84年、大船渡の春、夏のスコア
84年、大船渡の春、夏のスコア

 吉田は筑波大を経て、母校の監督を04年から9年間務めた。その間、11年には震災に遭った。目に焼き付いている光景がある。

 吉田 3・11から1カ月たって練習を再開した時です。子供らがキャッチボールする姿を見ていると、1球1球気持ちが入っているのが分かった。みんな野球に飢えていたんですね。野球の力はすごい、と思った。私自身、光もあれば影もあった甲子園ですが、本当にいろいろなことを学べた。この子たちをあの場所に連れて行ってあげたい。心からそう思いました。

 監督を辞し、来年に控えた岩手国体の強化担当として奔走する今も、吉田は後輩たちが再び聖地の土を踏む日を願っている。(敬称略)【石井康夫】