1876年(明9)に行われた日米野球の記録は、多くのことを教えてくれた。同時に、どうしても分からない謎も残った。日本人チームの「3番、遊撃」で出場した「Hwogama」。彼はいったい誰なのか?

(2016年5月14日付紙面から)

1876年12月23日のニューヨーク・クリッパー紙に掲載された日米野球のスコア(「ILLINOIS DIGITAL NEWSPAPER COLLECTIONS」ホームページより)
1876年12月23日のニューヨーク・クリッパー紙に掲載された日米野球のスコア(「ILLINOIS DIGITAL NEWSPAPER COLLECTIONS」ホームページより)

 明治9年の日米野球は、まさかのシーソーゲームになった。その要因は日本人学生の俊敏さにあった。ニューヨーク・クリッパー紙に、この試合の様子を投稿した人がいた。「EXILE(流浪者)」というペンネームで「日本人たちは動きが素早く、送球がうまかった」と感想を書いた。当時、日本に滞在していたお雇い外国人で、野球に興味のある人はそれほど多くなく、「EXILE」は、この試合に出場していた米国人の誰かと思われる。

 米国人を驚かせた日本チーム。その中心選手の1人の名前が、判明していない。「EXILE」は名前を耳で聞いて、アルファベットに変換した。笠原は「Kusahorra」、青木は「Awokie」と表記されている。一般的なローマ字とはだいぶ異なる表記だ。それを考慮して推察しても「3番、遊撃」の選手だけが判明しなかった。

 「Hwogama」と表記されていた。そのまま読めば「ほうがま」だろうか。当時の東京開成学校の名簿に似たような名前はなかった。笠原や青木のように、少し違う表記になっているのか? だとしたら「ほかま」や「おがわ」ぐらいまで候補になるのだろうか。「ひらおか」と読めれば、翌年に新橋アスレチック俱楽部という日本初の本格的野球チームをつくった平岡熙(ひろし)まで候補に挙がるが、とても「ひらおか」とは読めない。真相は謎のままだ。

 当時、遊撃手の役割は絶大だった。今の野球でもキーポジションではあるが、さらにやることが多かった。というのも、一塁手は一塁に、二塁手は二塁にというように、ベースに1人の守備が付くのが基本だった。内野に飛んだ打球は遊撃手がカバーし、外野からの中継プレーもすべて遊撃手が入った。体力に優れ、メンバーの中でも野球を知っている人物でなければ、「3番、遊撃」は務まらなかっただろう。謎の男が、高い運動能力の持ち主だったことは疑いようがない。

 1896年(明29)7月22日の新聞「日本」に、「好球生」というペンネームの人物が「ベースボールの来歴」という投稿をしている。同19日の紙面で正岡子規が野球の来歴について「平沢熙が始めた」と書いた原稿に誤りがあると指摘し、ウィルソンがもたらしたことや、明治9年前後に外国人を相手にした野球が非常に盛り上がったという話を書いている。そこには何人か、野球が上手だった選手の名前も記されている。福島廉平、高須碌郎、青山元、秋山源三、馬場信偏、千頭清臣、谷田部梅吉、五代龍作、大久保利和、牧野伸顕、喜多村弥太郎。そしてフルネームの分からない小藤博士と中沢博士と平賀博士とある。

 この中に「Hwogama」はいるのだろうか? 最初の「侍ジャパン」で中心だった選手の名前が分からないのは、なんとも痛い。「Hwogama」氏の子孫、もしくは知る方がいたら日刊スポーツ新聞社にご一報を願いたい。(おわり)【竹内智信】