今年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任した平石洋介監督(38)の故郷、大分・杵築(きつき)市で、29日「東北楽天・平石洋介監督を励ます会」が行われた。監督就任後、初めてとなる帰省に、杵築市長・永松悟氏ら約100人の有志が集まった。平石監督は「ものすごく厳しい戦いになると思いますが、覚悟はできています。勝ちます。楽天は杵築の皆さんが見ても、感動していただけるチーム。どうか温かく見守ってください」と決意を口にした。


大分出身ながら、たどった球歴から「大阪出身」と間違われることが多いと言う。八尾フレンド(大阪)からPL学園に入学。同志社大学、トヨタ自動車でプレーし、2005年ドラフト7巡目で楽天に入団。アマチュア時代の大半を関西で過ごしたからか、話し言葉も関西弁だ。そんな平石監督は「僕は早々にこの地(杵築)を出たのでね。関西出身と間違われるたびに『僕の生まれ故郷は大分の杵築っていうところなんですよ』と言っているんですよ」と笑った。地域の人に育てられた恩がある。郷土愛は、人一倍深い。


「早々に」。そう、平石監督は小学校卒業後、12歳で親元を離れている。「プロ野球選手になる」という夢をかなえるため祖父母と共に大阪に渡り、PL学園・桑田真澄投手らを輩出した中学野球の名門・八尾フレンドに入部したのだ。当時あまり例のない“中学校からの野球留学”。この時の決断と思い出を語るとき、平石監督の瞳は少しだけ潤む。「大分発のフェリーでしたね。地元の友達たちが紙テープを投げて見送ってくれてね。BGMが蛍の光。いっそう寂しくなって、みんなが見えなくなってから船の上で泣きました」。いまも鮮明に覚えているシーンだ。


■人が自然とついていくキャプテン


「励ます会」には、あのとき港から平石監督を見送った、野球チーム「臥牛(がぎゅう)」の同級生もかけつけた。当時サードを守った稲吉荘平さん(38)は述懐する。「ヒラ(当時の愛称)が大阪に行くと聞いたときはショックだったけど誰も『寂しい』とか『行くな』とは言えなかった。我が強い選手ばかりのチームだったけど、アイツがキャプテンだったからまとまった。多くを語らなくても、人が自然とついていくキャプテンでした」。携帯電話やSNSがない時代。中学、高校時代は手紙を送り合う「文通」で心のつながりを続けていたという。

今年10月には、稲吉さんら同級生たちが声を掛け合い、監督就任を祝う横断幕を制作した。控えめなデザインが、選手として決して華やかではなかった平石監督の人望を表しているようにも見えた。杵築インターを下りてすぐの市道に、その横断幕は飾られている。


12球団で最も若い監督となった平石監督を見ながら、稲吉さんはこんなことも言っていた。「人の心をつかむ求心力を、機会があったら彼に聞いてみたいんですよね」。

38歳。結婚して親となり、会社では中間管理職を任される年齢になった。自分も働き盛りでありながら、部下を抱え、人にヤル気を起こさせる、人の心を動かす、そういった難しさに直面することが増えてきている。

「ですので、ヒラの監督就任は、刺激になっているんです。この先、大変なことがたくさんあると思いますが、自分も負けてられないと思いました」。置かれた場所で、自分の役割を全うする。「臥牛」がそうやって強くなっていったように、監督就任は、稲吉さんら同級生たちの負けん気に再び火を付けたようだ。


平石監督はチーム作りについて「ぶれない心を大事にしたい」と言い切った。

「もちろん迷いや悩みはいつもあると思います。人間、無責任だったら悩まない。でも、チームのことを真剣に考えれば悩むのは当然です。ぶれない、というのは人の意見を聞かないということではありません。本音でぶつかり合って、その結果、ぶれない姿勢を見せていきたいですね」。


恩師や野球関係者、先輩後輩同級生、お世話になった地元の住民の人たち一人一人と握手をし、目を見ながら思い出話を交わしていた平石監督。「故郷に帰ってくると、頭をいったんリセットできる。地元の人たちから新しい気づきや勇気をもらいました」。決意の顔は、もう2019年に向かっていた。【樫本ゆき】