秀岳館(熊本)を16年春から3季連続で甲子園4強に導いた鍛治舎巧監督(68)率いる県岐阜商(岐阜1位)が、加藤学園(静岡2位)にサヨナラ勝ちし、5年ぶりのセンバツ出場を濃厚にした。

試合後、鍛治舎監督は「苦しかったですね。7、8、9回に点が入るから後半勝負と言っていた。そこが勝負だから一気に点を取ろうと話した。選手をほめてやりたいです」と安堵(あんど)の表情を見せた。

その通り、鍛治舎マジックが的中した。3点を追う6回からエースの森大河投手が登板。3者凡退に打ち取り相手に傾いていた流れを断ち切ると、その裏1死一、二塁から5番高木翔斗捕手の中前安打に敵失が絡んで1点を返し、なお二、三塁から犠飛で2点目を追加。8回に同点に追いつき延長戦へ持ち込むと、それまで5回1安打と好リリーフするエースに応えるように打線も奮起。1死満塁から1番多和田尚旗内野手が外直球を左翼へ運び、サヨナラ勝ちを決めた。

鍛治舎監督は18年3月から、母校・県岐阜商の監督に就任。ユニホームのデザインを従来の白地に紺字のものから、アンダーシャツを明るい青色に、ストッキングを山吹色のものに一新するなど話題を呼んだ。

東海地区からのセンバツ出場枠は2。決勝に進出し来春のセンバツ出場は手中だ。「秋の目標は神宮です。次の試合に勝たないと甲子園での勝者にはなれない」。母校の名前を背負い、甲子園に帰ってくる。

◆鍛治舎巧(かじしゃ・たくみ)1951年(昭26)5月2日、岐阜県生まれ。県岐阜商3年時の69年センバツで、比叡山(滋賀)の間柴(元ダイエー)からセンバツ甲子園通算100号を放つ。8強入り。

早大では大学日本代表の4番を務め、東京6大学通算800号本塁打を記録。74年に松下電器(現パナソニック)に入社し、81年秋に引退。86~91年に同社監督、89~91年まで日本代表コーチも兼任。「オール枚方ボーイズ」の監督も務め、13年には、中学硬式野球日本一を決めるジャイアンツカップなど全5冠を独占した。85~10年までNHKの高校野球解説委員を務めた。14年4月に秀岳館監督に就き、16年春から3季連続で甲子園4強。18年3月から県岐阜商監督に就任。