甲子園は閑散としていた。センバツ高校野球が開催されていれば、この日が決勝戦だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で大会中止になった。

いったんは無観客で決行する方針が急転。その後の取材では決断まで、主催する高野連と毎日新聞でせめぎ合いがあったようだが、現状を考えると正解だった。

戦後初のセンバツ大会の中止は賛否両論だ。現在はSNSなどで出場権を得た高校に対する代替案を求める意見がでている。

一連の流れについて、興南(沖縄)の我喜屋優と話すことができた。高校球界ではまれな存在で、「監督」であって、「理事長」「校長」の肩書をもつ教育者で知られる。

自身も高3夏の68年に沖縄初の4強入り、米国占領下にあった地元で「興南旋風」を起こした。社会人の大昭和製紙富士では都市対抗で優勝も経験している。

07年母校の監督に就くと24年ぶり甲子園出場、10年は春夏連覇に導く。全国で春季大会が続々と中止になっているこの日、沖縄では無観客で試合が行われた。

我喜屋は「組織(主催者)が中止と決めたのだから動かせない」と前置きした上で、代替案については否定的だ。自ら「教育者として」といって切り出した。

「なかなか現実を受け入れられないのは痛いほどわかる。でも長い歴史のなかの悲劇と受け止めるしかない。100%思うとおりになる人生などあり得ない。指導者も、保護者も、関係者も、子供たちにこの悔しさを夏にぶつけてほしいと教えていただけないだろうか」

太平洋戦争で日本唯一住民が巻き込まれ、激しい地上戦が展開された沖縄で育った。祖国が平和になって野球に巡り合った幸せは人一倍感じている。

「監督」の立場としてセンバツの中止を嘆く気持ちは十分に理解できる。だが一方で「教育者」として「この逆境を乗り越えることが後の人生に花を咲かせることになるのだから」という。

我喜屋は「日本一しつけにうるさい監督」を自負する。甲子園をながめながら背筋が伸びた。(敬称略)