センバツに続く夏の甲子園の中止が決まり、高3生は目指してきた晴れ舞台がなくなった。このやりきれなさの出口は、どこにあるのか。1995年(平7)からのべ17年、春夏の甲子園、地方大会を取材した堀まどか記者が、球児の心を思った。

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25年前の8月に聞いた言葉が、今も耳に残る。

「最後の打者が、うちの子でよかった」

1995年夏の甲子園大会準々決勝。PL学園は接戦の末、智弁学園に敗れた。一打逆転を期待された場面で主将の福留孝介(阪神)が併殺打に倒れ、最後の打者になった。父景文さんは「最後が他の選手だったなら、親御さんが悲しい思いをされたでしょうから」と夏空を仰いだ姿を見届けた。胸を衝かれる言葉と巡り会った。

3年後の夏の準々決勝。横浜とPL学園の対戦は、15回を過ぎても終わらなかった。「平成の怪物」松坂大輔(西武)と渡り合う西の横綱。球史に残る瞬間に立ち会えた。

「高校野球は一番輝いている。人生で一番の青春でした」。13年夏、高校最後の甲子園を終えた大阪桐蔭主将・森友哉(西武)はそう言って、控えの捕手で副将だった盟友との出会いに感謝した。そんなことを語れる森がまぶしかった。

傷ついた聖地も見た。95年1月17日、阪神・淡路大震災の直後。グラウンドに泥水が噴き出し、アルプスはひび割れていた。センバツなど想像できなかった。日本高野連・田名部和裕事務局長(当時)が古ぼけたスクーターに乗り、褞袍(どてら)を羽織って駆けつけて来た。球場の惨状を伝える説明に耳を貸さず「甲子園が無事やった」とひとしきり泣いて、去って行った。2カ月後、大会は開幕。甲子園は不死身と思えた春だった。

球児の甲子園が、春も夏も閉ざされる。人事をつくしても、大会の無事の保証はない。甲子園で感染者が出れば、国民の耐久は無駄になる。授業のない学校で、部活優先の法はない。いくつもの無理を思い、納得しようとした。主催者も心を押さえつけたのだと思う。もはやこれまでと苦渋の決断を冷静に下せるよう、心を整えたのだと思う。

だが。何かを失う恐ろしさで、体の震えが止まらない。球児の喪失感の大きさが、測れない。

経験は糧になる? 人生の苦難も、乗り越えて行ける? 夢をなくした無念は、ほかのものでは埋められない。

インターハイ、全日本吹奏楽コンクール…。文武の大会が中止になり、高校野球だけが特別ではない、の声も球界内外で聞いた。サッカーもラグビーも吹奏楽も、打ち込む人間にとってはみな特別。なくしてはならないものなのだ。

履正社と星稜が戦った昨夏決勝。甲子園に、星稜元一塁手の加藤直樹さんがいた。79年夏の箕島戦。ファウルゾーンで転び、勝利へのあと1球を捕れなかった。いわれのない非難を受けた。それでも甲子園に帰ってきた。当時の山下靖主将らと「いい行進をしてるね」と伝統を受け継ぐ後輩を見守った。甲子園は、人の戻る場所だと思った。

あれからまだ1年もたってない。なのに、遠い昔の夏に思える。【堀まどか】