せめて聖地へ。元オリックススカウト部長の堀井和人さん(72)が、球児救済を願った。06年7月に82歳で亡くなった元南海(現ソフトバンク)外野手の父数男さんは元日新商(現日新)エースで前回、夏の甲子園大会が中止になった1941年(昭16)の幻の大阪代表だった。戦局悪化で自身3度目の甲子園に立てず。明星(大阪)外野手で64年夏の甲子園に出場した堀井さんは「行進、練習などの形になっても甲子園に立ってほしい」と球児を思った。【取材・構成=堀まどか】

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セピア色に変わった大会史のコピーに「事変の拡大に鑑み」と、中止の記述がある。全国中等学校優勝記念大会の歴史は、41年から45年まで途切れている。

父数男さんが41年夏の幻の大阪代表だった話を、堀井さんは人づてに聞いた。「こんな話を聞いたけど」と問いかけたとき、父は多くを語らなかった。ただ一言「悔しかったわ…」とつぶやいた。

41年6月22日にドイツとソビエトが開戦。軍事演習を理由に、県をまたいでの移動が禁じられた。そのあおりで全国的なスポーツ競技会が取りやめになり、中等学校の野球の全国大会も中止になった。

すでにいくつかの地方予選は始まっており、大阪大会も8月3日に藤井寺で開幕。決勝で数男さんは、浪華商を相手に延長13回を無失点で投げ抜いた。投げ合った相手は、のちに大洋球団(現DeNA)初の開幕投手を務め、昨年10月のクライマックスシリーズ阪神戦の始球式で95歳の見事な投球を披露した今西錬太郎氏。好ゲームだった。

「おやじがいつの時点で、大阪で勝っても甲子園に行けないことを知ったのかはわからない。しかし、強い浪華商を相手にすごい試合をしたのだと思う」。堀井さんはそう述懐する。数男さんが入学したときはローマ字表記だったユニホームの校名も、41年の写真では漢字表記に。外国語は敵国語とみなされた時代。数男さんは44年に入隊し、45年の終戦を軍隊で迎えた。

復員後、プロ野球の南海軍に入団し、好守強打の外野手に。引退後は名スカウトになった。「プロ野球選手にもなり、満足な野球人生を送った。41年夏のことを語らなかったのは、そのためやないかな。思うような野球人生やなかったら、悔やんでたかもしれへんね」と堀井さんは言う。

だからこそ、球児たちのこれからが心配でならない。「センバツは代表校が決まっていた。ウイルスとの闘いで仕方のないこととはいえ、どれほどがっかりしたかと思うと言葉もないよ。行進でも練習でも、センバツの出場校には甲子園を踏ませてあげてほしい」。何度もそう、繰り返した。

◆堀井和人(ほりい・かずひと)1948年(昭23)3月15日生まれ、大阪府出身。明星から法大を経て69年ドラフト7位で南海(現ソフトバンク)入団。70年10月18日西鉄戦(大阪)で代走として1軍初出場。父数男氏も南海外野手で、73年にプロ野球史上初の親子で日本シリーズ(対巨人)出場の記録を作る。80年で引退し、南海、ダイエー、近鉄でスカウト。オリックスとの球団合併でオリックス・スカウト部長となり、09年で退任した。

◆堀井数男(ほりい・かずお)1923年(大12)12月12日生まれ、大阪府出身。日新商(現日新)から43年に南海軍(47年に南海ホークスに球団名変更、現ソフトバンク)に入団。俊足巧打の外野手として活躍し、53年にベストナインに選ばれた。59年に引退し、南海の2軍打撃コーチを経て68年にスカウトに転身。76年パ新人王の藤田学らの獲得にあたった。06年7月24日、肺炎で逝去。