95年の阪神・淡路大震災から26年を迎えた17日、当時、神戸市長田区の自宅で被災した神戸国際大付の青木尚龍監督(56)が胸中を明かした。この日は神戸市内の同校でミーティングを行い、センバツを目指すナインに野球ができる幸せを伝えた。【取材・構成=酒井俊作、望月千草】

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生きているから話をできる。あの地震から数週間たって、神戸市垂水区のグラウンドが気になったので、移動のために買った原付で見に来たんです。本塁からセンター方向に割れ目が2つ入っていた。26年前のこの日、ホンマに起こったことを伝えないといけない。朝、選手にも話しました。

いろんな思いをしている人がいますし、軽々しく言えることではありません。生徒も2人、亡くなっています。私は神戸市長田区の自宅が半壊し、親が住む実家は全壊。ドーンという音がして「何?」という感じで。グラグラグラ、ガシャーン。5秒くらい。まだ、まだ、まだ…。長く感じた揺れ、尋常な音ではありませんでした。ずっと後まで揺れを体が覚えていた。家の外に出て、隣の家が倒れていた。道路は1メートルの段差ができていた。家族は無事でしたが、新開地から湊川まで、ずっと火事でした。

正直、野球どころではない。野球部の子も水運びしていた。「トレーニングやと思ってやれよ」と言いましたね。私は近所の高校で避難生活しました。1人ではいられない。不安なので人といないといけない。昼間は拾い集めた木を燃やして暖を取る。夜は車の中で寝る。そういう生活が長く続きました。野球部が活動再開できたのは3月です。

あの春、センバツが何とか開催されたからこそ、頑張れた。県勢3校が選ばれて「俺らもああやって甲子園に出られるように頑張ろう」と言いました。野球をできたことが本当にうれしかったです。まだ壊れた家のがれきが積み重なった状態。「野球なんかやって」という声があったのも確かです。センバツが行われたことで、自分たちがやってきたことを思い切って出すことが大事だと考えました。

昨年、新型コロナウイルスで活動停止になった時に「こんなに長い間、生徒と会えないのは初めてでしょう」と聞かれました。でも違います。震災の時も2カ月、会えませんでした。似たような状況です。当たり前のことが当たり前でなくなった時、人間は驚くし、途方に暮れる。でも、人間ってすごいなと思います。困難を解決していきます。道路や線路が消えても元に戻すし、もっといいものも作る。当たり前のことが当たり前じゃなくなった時、どう考えるか。周囲に感謝することが大事です。

昨年は春夏の甲子園がなくなりました。この子たちも私たちも、そこを目指してやっています。ウチの3年生が「なんで僕らのときばかり」と言った。それがすごく印象に残っています。今回、センバツが開かれるなら、去年の続きだと思います。選出していただいたなら、1球に対する思いを選手に伝えたいですね。

○…神戸国際大付の西川侑志主将(2年)も青木監督が阪神・淡路大震災について伝えたミーティングに深くうなずいた。「修学旅行の日の朝だと聞きました。今日の話を聞いて、当たり前のことが当たり前ではないと感じました」。同校は昨秋の兵庫県大会を制し、近畿大会8強。この日はシート打撃を行った。新型コロナウイルスの感染予防に細心の注意を払い、寮では食事などで3密にならないよう徹底する。「いま、全力で野球に向き合える時間が途切れないように注意したいです」と戒めていた。

◆青木尚龍(あおき・よしろう)1964年(昭39)9月18日、兵庫県生まれ。八代学院(現神戸国際大付)から愛工大工学部に進み、現役時は外野手としてプレー。89年、神戸国際大付のコーチに就き、90年4月から同校監督。甲子園は01年センバツで初出場を果たし、春4度、夏2度出場。05年センバツでベスト4。主な教え子はヤクルト坂口、楽天小深田、巨人平内ら。趣味はプロレス観戦。