日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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沖縄が本土に返還された1972年(昭47)は、興南高監督の我喜屋優にとって大昭和製紙富士(静岡・富士市)に入社4年目、まさかの北海道白老町に転勤した年だった。

「同じ工場で働く社員から、おめでとうと声を掛けられました。でも、えっ、車は右側通行だったの? 米ドルを使ってた? と驚かれた。飛行機に乗るのはぜいたくと言われた時代で、沖縄は外国のような感覚だったんでしょうね」

太平洋戦争で国内唯一、一般住民が巻き込まれて激しい地上戦が繰り広げられた地。我喜屋が生まれた南部の玉城(たまぐすく=現南城市)は「特に大きな激戦だった」と戦禍の傷痕が目に焼き付いている。

「海に行けば大砲の破片があったし、山に登れば使用されていない砲弾が山積みになっていた。子供には大量に転がった遺骨は生々し過ぎた」

左手に障害をもつ父・加那(かな)は米軍の仕事をしながら、手作りの船で魚釣りをした。畑仕事をして子供を育てた母・文(ふみ)は、戦争の話題になれば一日中でも話しをする人だった。

「でもいつも母親が『これからはお前たちの時代だから、過去を振り返るんじゃないよ』と何度も話していたことは、今でも忘れることができません」

本土復帰前の第50回大会だった68年夏、興南主将で県勢初のベスト4に進出し“興南旋風”といわれた。監督に就任以来、2010年春夏連覇、18年の第100回大会も甲子園で采配をふった。

「なぜか50回、100回といった節目に縁があるんです。特に今年は本土返還50年で、絶対に甲子園に行きたという気持ちが強かったので、ほっとしたのと責任を感じていました」

少年時代に米軍基地内で行われていたベースボールを金網越しに見た瞬間が野球との出会いだった。かつて米軍の軍政下に置かれた沖縄は苦難を乗り越え、本土返還から50年の時を刻んで新たな時代に突入する。

「沖縄には判官びいきで、弱いけど頑張れみたいな同情があった。でも沖縄尚学が優勝し、沖縄水産が健闘、沖縄は本土に追いつけ、追い越せじゃない。常に同じ土俵に上がるまでになったと自負しています」

監督として7度目の聖地。野球を通じて社会に役立つ人材を育成するのが我喜屋イズムで「この年になっても若さを維持し、年を言い訳にしたくない」と意地をのぞかせていた。

我喜屋は「子供たちには一瞬でもいいから甲子園で野球ができる平和を感じとってほしい」とも語っていた。市船橋(千葉)にサヨナラ負けの初戦敗退。興南ナインにとって甲子園はホロ苦くもあったが“特別な夏”になった。(敬称略)