オールスターには5回出場し、いつもバネの利いた躍り上がるようなフォームで剛速球を披露した。元気でいれば、この日もこの舞台で快投を演じたことだろう。まだ32歳。闘病中だったのは大半の関係者が知っていたが、この若さで逝ってしまった稀有(けう)な才能に、だれもが言葉を失った。

 炎のストッパーが病魔に襲われたのは一昨年のことだった。91年の春季キャンプ中から頭痛を訴えて、同年開幕直後の4月16日、風邪による体調不良を理由に登録を抹消された。そして5月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、津田さんが「水頭症」であることを発表(当時、脳腫瘍であることの発表は周囲の動揺を避けるため控えられた)。同20日に準支配下選手とした。

 その後、福岡市内の病院で治療を受けたものの、過激な運動はもう無理と判断された。広島の優勝が決定する前に本人から、退団届が提出された。球団は本人の意思を尊重して、同年11月6日付で退団を受理した。新人王に輝き、86年は優勝に貢献。89年には40SPで最優秀救援投手賞を獲得した津田さんはプロ10年目で、31歳だった。90年こそ故障に見舞われたが、まだまだ現役で投げられる年齢なのに、病魔に野球生命を奪われてしまった。

 昨年3月末のこと。津田さんは博多遠征中のチーム宿舎へ陣中見舞いに訪れた。元気そうな姿に山崎隆、北別府らは安心した。「広島では現役として復帰させてもらえないだろうから、博多が本拠地のダイエーの入団テストでも受けて、もう一度マウンドに立とうかな」と、津田さんはかつてのチームメートに笑顔でもらしたという。ひょうきんな性格でナインのだれからも愛された男。生きがいを奪われても陽気に振る舞った。

 会話も不自由な状態に陥ったり、奇跡的な回復を見せたり一進一退が続いた。今年3月のオープン戦中、チームの福岡遠征の折、山本監督は正田選手会長、山崎隆を連れて見舞いに行った。その時にはやせほそった痛ましい姿だった。それでも奇跡的な回復を信じ、山本監督らは津田さんに励ましの言葉をかけた。

 願いはかなわず、帰らぬ人となった津田さん。あまりに若すぎる死だった。