4日午前5時25分に70歳で死去した楽天星野仙一球団副会長の密葬が6日、三重県津市で執り行われた。

 元広島監督の山本浩二氏(71)が6日、都内の自宅で取材に応じ、盟友の旅立ちを悼んだ。明大のエースだった星野仙一氏とは、同学年で6大学野球時代からのライバルとしてしのぎを削った、友だった。プロ入り後も選手、指導者、野球人として球界をけん引。北京五輪ではともに戦った。50年来の親友との突然の別れに「バカヤローだよ」と声を張り上げて悲しみに暮れた。

 山本氏は天国を見上げることなく、うつむいた。「バカヤローだよ。早すぎる…」。突然の別れに「つらい。本当につらい。ショックが大きい」と沈痛な表情を見せた。死因の膵臓(すいぞう)がんについては「そういうことを言う人間じゃない」と星野氏本人から知らされていなかった。「長い付き合いだから長いこと会わなくても、1度会えば、お互いのことが分かる感じだったんでね。でも、早すぎるよ…」。目を赤くし、必死に涙をこらえた。

 親友であり戦友だった。田淵幸一氏、故富田勝氏とともに「法政3羽がらす」の異名を取り、明大エースだった星野氏と東京6大学リーグで競い合った。「大学時代から田淵も含めて、互いに負けたくないという気持ちでやってきた。だからこそここまで来られた。良きライバルだった」。08年北京五輪で星野ジャパンの守備走塁コーチに就任。日の丸を背負い初めて同じユニホームに袖を通した。

 心優しい「闘将」だった。「熱血漢は知っての通り。いつになっても会えば『オイ』『お前』の仲だった」。顔を合わせれば野球談議が弾む。「ののしり合うこともあったけど、互いを認め合っているからこそだった。内面は優しかった。本当に気づかいの心を持った人間。互いにないものを持っているから、話すことで勉強になった」。かけがえのない友だった。

 だから、かすかな予兆に胸騒ぎがした。生前、最後に顔を合わせた昨年11月28日の星野氏の野球殿堂入りを祝うパーティーで「疲れているんじゃないかな、と感じた。体に気をつかっていたし、心配だった」。3日後、お礼の電話がきた。「『ありがとな』と言ってきたので『ちょっと疲れているようだから気をつけろよ』と返した」が、反応はなかった。

 あまりにも早すぎる別れに心残りは山ほどある。「もう1度、会えれば野球の話がしたいし、いろいろ話がしたかった。富田もいなくなって…早すぎるよね。本当に寂しい」。1カ月前に交わした最後の会話にいまだ返答はない。天を仰ぐことすらできず、悲しみに暮れた。【桑原幹久】