小さな2人の投手が歩む道が1768日ぶりに交差した。巨人田口麗斗投手(22)オリックス山岡泰輔投手(22)の投げ合いがプロの舞台で初めて実現。高校3年夏の広島大会決勝で語り草となっている投手戦が源流となっている。(取材・構成=桝井聡、桑原幹久)

 どんな思いを抱き、甲子園のマウンドで躍動する小さな右腕の姿を見つめていたのだろうか-。

 田口を指導した広島新庄の迫田守昭監督は5年前の夏を記憶から掘り起こす。「決勝で負けた後、山岡君の試合を甲子園まで応援に行ったらしい。1年生から2人とも投げていたからね」。田口は高校時代、節目の試合でいつも瀬戸内・山岡と対峙(たいじ)した。1年夏、2年夏・秋、3年春、そして最後の夏。「高校3年の時も山岡君が最後は来ると思って練習していたと思う」。運命を覚悟していた。

 13年7月28日、広島大会決勝。170センチ左腕の田口、172センチ右腕の山岡がスコアを動かすことを許さなかった。田口は13安打を浴びたが要所は締め、140キロ中盤の直球を軸に19奪三振。山岡は9回1死まで無安打投球を続け、15回で1安打しか刻ませなかった。広島が1県1代表制となった59年以降、決勝の再試合は初めてだった。

 田口はもともと感情がほとばしる投手だった。迫田監督は「1、2年の時はいらいらした態度を取ったり、すぐにかっかしてしまうこともあった」と捉えている。だがあの戦いは違った。「常に笑顔だった。責任感も出てきたし、落ち着いて投げられるようになった。マウンド上で『ワシについてこい』と言わんばかりの振る舞いだったから成長できたのかな」と脱皮の瞬間を目の当たりにした。

 山岡も同じ境地に達していた。15回を投げ終え、口にした。「また、試合ができるんだ」と幸福感が疲労感を上回った。瀬戸内の監督を務めていた小川成海氏も激闘後のエピソードを明かす。「1安打に抑えたのにこうなったのは俺のせい。好きな飯を作るよ」。童顔な右腕は「すき焼きと炊き込みご飯が食べたいです」と無邪気にリクエスト。監督は買い出しに出掛け、自ら手料理を振る舞った。

 2日後の再戦。ゼロは7回まで続いた。8回に田口が瀬戸内に1点を刻ませるまで。2試合計24回の激闘は山岡に凱歌(がいか)が上がった。山岡は言った。「うれしかったけど、ちょっと残念だった。ずっと投げ続けていたい。どうせなら、もう1回再試合でもいいかなと思った」。“永遠の0”でもいい、とさえ思えた。

 田口も試合前に言葉を交わした山岡との約束通り、笑顔を貫いた。「どっちが勝っても悔いがないから、俺は泣かない」。涙はなかった。

 高校卒業後、2人の道は分かれた。田口は巨人へ、山岡は社会人の東京ガスに進んだ。山岡はプロへの思いも抱いていたが、小川氏の考えだった。「プロは(得意球だった)スライダーに対応してくる。厳しい社会人野球で直球を磨けと」と修行へ送らせた。

 3年の武者修行を終え、山岡は昨年、すでに10勝投手となっていた田口と同じプロの世界に飛び込んだ。新人ながら先発に定着。交流戦ではローテ順なら巨人の左のエースへと成長した田口と当たるはずだった。だがチームの苦しい台所事情で田口が登板間隔を詰め“再々試合”は流れた。

 5年の歳月を要し、2人は相まみえた。ともにローテを務めるが、成績は伸び悩んでいる。迫田監督は試合前日、心を躍らせていた。「広島の人はみんな意識して見ると思う。あの日以来の投げ合いだからな。私もテレビを録画しなきゃな(笑い)」。一方で田口への心配もあった。

 「この間の広島遠征の合間にあいさつに来た。迷い、悩んでいるような顔で笑っていなかった。気持ちが出ていない。昔の田口じゃなかった。結果ばかり気にして、ごまかしているようなピッチング。変化球をまいて、軽くかわそうとしている。攻めなきゃダメ、気持ちで攻めろと言った」。吹っ切れてほしい。その転機になりえる。「山岡君との投げ合いで昔を思い出すきっかけになってくれれば。3年の夏の借りを返さなきゃいかん、と思っているだろう」と期待していた。

 小川氏も山岡の壁を感じている。「去年の年末にご飯を食べた時も『このままだと2ケタは勝てない。いいところ5勝だぞ』と言った。カットボールや変化球に頼りすぎている」。壁を打ち壊す機会が必要だった。

 試合前日、山岡はクールだった。「自分の役割をするだけ。特に意識はないです」。高校日本代表や昨年11月の侍ジャパンで2人と僚友だったオリックス若月は「U21日本代表で平良(現DeNA)と4人でご飯を食べに行ったけど、お互いのことについての話は聞いたことがない」と言う。2人は親友でもない。ライバルという言葉に集約するのも安直かもしれない。ただ言えることがある。逆らえない運命のように、対決の舞台が節目で野球の神様に用意されることだ。