阪神に97年ドラフト6位で入団した奥村武博さん(39)。プロ4年間は1軍登板0で終わりましたが、第2の人生は9年がかりの猛勉強で“3大国家資格”とも言われる公認会計士の試験に合格。ビジネスマンとして大活躍の日々を送っています。【取材・構成=松井清員】

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 奥村さんの勤務先は東京都心、千代田区のオフィス街にある。188センチの長身に格好良くスーツを着こなすビジネスマン。執務室には法律関係の難しい書籍が並んでいる。職業はプロ野球出身選手初の公認会計士。医師、弁護士と並んで3大国家資格といわれる超難関の突破者だ。

 奥村さん 主な仕事はプロ野球選手やJリーガー、プロゴルファーなどスポーツ選手の確定申告の代行、引退後の資産形成など財務面のコンサルティングです。上場企業が投資家向けに公表する財務諸表監査なども行っています。

 岐阜・土岐商から97年ドラフト6位で阪神に入団。長身の本格派右腕で、野村克也監督からは「小山正明2世」と期待された。だが、プロ生活は右肘手術、左脇腹の疲労骨折、右肩痛など故障の連続。1軍登板なく01年に戦力外通告を受け、職をつないだ打撃投手も1年で解雇となった。“念願の甲子園登板”をかなえたトライアウトを区切りとし、ユニホームを脱いだ。

 奥村さん 寮を出て仕事を探さないといけないけど、どうしたらいいのか…。漠然と飲食以外、思いつきませんでした。現役時代に行きつけだったお店の従業員の方と、ミナミので小さなバーをやりました。調理師免許を取ろうと、昼間に調理師学校に通って夜はバーで明け方まで…。

 その03年、阪神は星野フィーバーで18年ぶりの優勝を飾った。ドラフト同期で同い年の井川慶が20勝の大車輪だった。一方の奥村さんは1年あまりでバーをやめ、「他にアイデアが浮かばず」次の仕事も飲食。ホテル調理場の手伝いや宴会場のウエーターのバイトで何とか生計を立てていた。阪神ファンの上司にも元選手とは気づかれなかった。

 奥村さん 井川や一緒にやってきた仲間が勝つのはうれしいことです。でもその時の自分の境遇を考えた時、嫉妬や喪失感があって…。何をやってるんだ、将来どうなるんだという不安や葛藤が一層募りました。

 転機は04年のある日のこと。自宅に帰ると1冊の本が置いてあった。付き合っていた彼女が買ってきた「資格ガイドの本」だった。

 奥村さん 悩んでいる僕を見て、世の中にはいっぱい仕事があるんだよと気付かせたかったようです。飲食の世界だけでなくもっと視野を広げて考えたらと。

 眺めていると、公認会計士に目が止まった。試験科目に簿記がある。土岐商時代に日商簿記2級を取得していた。さらに2年後の06年から高卒にも門戸を広げる形で受験制度が変わり、大学で一定の単位を取っていなくても、受験できるように受験資格が緩和されることが分かった。

 奥村さん 目指す道はこれだと。04年夏から大阪の梅田にある資格予備校に通いました。昼はホテルの調理場、夜6時から学校の生活です。でも勉強することに不慣れで長続きしない。気分転換と称して、飲みに逃げることもありました。

 公認会計士の試験は1次がマークシートの短答式で合格すると2次の論文に進める。奥村さんは2年勉強して06年に初受験。だが3年連続1次で落ちた。それでも09年、「ラッキーパンチ」で初めて1次を突破。1次に受かると翌年から2年間、短答式試験も免除される。だが道のりは険しく、3年連続2次で落ちた。

 奥村さん 2次に3度落ちることを“三振”といいます。周りの人は、「元プロが三振したらダメだろう」と…。悔しいですよね。

 奥村さんは07年から東京に居を移し、自身が通う資格予備校の職員になっていた。受験生であり、受験生も世話する立場だ。毎年12月には試験合格者の祝賀会があり、そのホストを務めるのも仕事だった。「おめでとうございます」と笑顔で案内したり、記念撮影したり…。自分は落ちているのに、お祝いムードを演出する仕事だった。11年に“三振”した時、見かねた上司が食事に誘ってくれた。

 奥村さん 泣きながら焼き肉を食べました。「会計士だけが人生じゃない。他も考えては」と慰められ諦めようと思っていました。

 でも許してくれない人がいた。会計士のきっかけを作ってくれた彼女だった。

 奥村さん 「プロ野球も公認会計士も中途半端で逃げ出したら、この先もいろんなことに言い訳をし続ける人生になる。だから絶対ここで諦めたらあかん。歯を食いしばってもう1回頑張って」と。厳しい言葉で背中を押してくれました。

 後に結婚する最愛の人の言葉で目の色が変わった。

 奥村さん 部屋からテレビや娯楽を一切なくしました。ご飯も1分でも早く食べて勉強。トイレやお風呂に教材を置き、信号待ちの時もスマホで法令を覚えたりと、隙間時間も勉強にあてました。成果が出ると勉強が楽しくなり、力がついたのが分かりました。妻には感謝しかありません。

 仕事のある日は始業前の朝7時からの2時間など合計5時間勉強。休日は15時間やった。12年は再び1次で落ちたが、違う手応えがあったという。迎えた13年、5月に1次に合格すると、8月の2次も1発合格した。7年間試験に落ちて8度目で合格の七転び八起き。04年に勉強を始めてから9年の月日が流れていた。

 奥村さん 9年もかかるとは…。でも長い間苦しんだ分、将来について悩んでいる人に話を聞いてもらいやすいのかなと…。高卒でプロ野球に入って成功していない人間が、会計士になった対極も強みでしょうか。スポーツ選手で、引退後に指導者やスタッフなどの仕事にありつけるのは一握り。やめた後の方が長い人生を、どう充実したものにするか。少しでもサポートできればと思っています。

 

■スポーツ選手の引退後に協力も

 奥村さんは税理士法人「オフィス921(くにい)」で会計士として働く一方で、一般社団法人の「アスリートデュアルキャリア推進機構」を設立し、代表理事を務める。「デュアル」は「二重」の意味。プロ野球選手などのアスリートが現役生活をまい進しつつ、“野球バカ”で終わらない人としてのキャリア形成も並行して行うことで、引退後のキャリアを充実させられるという考え方だ。「私も高卒でのプロ入りは親に反対されましたが、それは引退後の生活が不安だから。実際戦力外通告後は漠然と、何をしていいのか不安しかありませんでした。でも現役時代から幅広い視野で世の中を見る意識付けがあれば、引退後も選択肢が広がる。スポーツ選手の価値、魅力がさらに高まり、トータルの人生で輝けると考えています」。「デュアルキャリア」の考え方の浸透はスポーツ庁も推進する施策の1つ。奥村さんは某プロ野球球団や学生、子どもの父兄など幅広く講演に勤しむ日々を送る。問い合わせは同機構電話03・5214・6173、またはHP(https://www.adcpa.or.jp)を参照。

 ◆奥村武博(おくむら・たけひろ)1979年(昭54)7月17日生まれ、岐阜・多治見市出身。武博の名前は文武両道を願って名付けられた。土岐商3年夏は決勝で石原慶幸(広島)率いる県岐阜商に敗れ甲子園出場ならず。97年ドラフト6位入団した阪神では1軍登板なく01年引退。現在は東京で公認会計士として活躍中。古巣阪神は今も一番気になるチームで、「年に何回か神宮のレフトスタンドで応援しています」。現役時代は188センチ、78キロ。

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