伝説の大砲、日本再上陸-。近鉄バファローズの主砲として君臨し、ファンの記憶に強烈に残る大本塁打を量産したラルフ・ブライアント氏(58)は現在、米国で芝刈り業への転身を果たした。1989年(平元)終盤には、首位を行く西武とのダブルヘッダーで4打数連続本塁打の離れ業。逆転優勝の立役者となった。今月末には来日し、ファンとのイベントに参加する。近況や日本での思い出を存分に語った。【国際電話=高野勲】

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バットを芝刈り機に持ち替え、ブライアント氏は第2の人生を過ごしている。新たなホームグラウンドは、米アトランタ州の民家の庭だ。日本球界を席巻した豪快なバッティングフォームとは裏腹に、芝生をきれいに刈り取っていく。また、生け垣の花を刈りそろえることもある。丁寧な仕事ぶりに評判は上々だ。

「もともとアウトドアで過ごすのが好きだったから、今の仕事は気に入っているよ。知り合いに頼まれて、数年前からやっている。野球をやめてから数年は、旅行したりして過ごしていた」

ブライアント氏は小学生のころ、兄ウィルバー氏に野球を教わった。近くの子供たちを集め、試合をするのが楽しみだった。兄が在籍していたオールバニ州立大の野球部のチームメートには、後に阪急(現オリックス)などで大活躍するブーマー・ウェルズ氏もいた。ブライアント氏が中学生のころ、自宅に遊びに来たこともあったという。後に日本でホームラン王争いをすることは、神様だけが知っていた。

81年のドラフトで、子供のころから応援していたドジャースと契約。85年に初めてメジャー昇格したものの、定着には至らず。3Aでプレーしていた88年春、中日のスカウトが現れ、日本球界へ誘ってくれた。さすがに東京は知っていたが、名古屋も大阪もどこにあるか知らなかったという。

「それでも迷いなく日本行きを決めたよ。私は27歳になる年で、マイナーで続けていくには少し年齢がいったなと思っていたからね」

当時の中日には、エース格の郭源治、好打者のゲーリーがレギュラーを張っていた。当時1軍でプレーできる外国人選手は2人まで。ここでもファーム暮らしが待っていた。

「そのころ、2軍戦は午前11時に試合開始だった。毎朝6時には起きていたから、いつも眠たくてねえ」

転機は急に訪れた。近鉄の主砲デービスが大麻所持によって逮捕されるという緊急事態。2軍戦でアンダースローの佐々木修から大本塁打を放ったブライアント氏を、近鉄首脳は覚えていた。急きょ金銭トレードで猛牛軍団の一員となる。

「仰木(彬)監督や中西(太)コーチに出会ったのは、本当に幸運だった。仰木さんは私に『いくら三振してもいい。ホームランさえ打ってくれれば』と言ってくれたんだ。一気に楽になったよ」

ホームランか、三振か。助っ人らしい立ち位置にお墨付きを得たブライアント氏は、持ち味を存分に発揮する。わずか74試合で34本塁打、そして91三振。仮に現在の年間143試合に出ていれば、実に65本塁打を放っていた計算だ。救世主を得たチームは、独走していた西武を急追する。そして迎えた10月19日、ロッテとの川崎球場でのダブルヘッダー。連勝すれば奇跡の逆転優勝が成る。第1戦をものにした近鉄は、第2戦も8回、ブライアント氏のソロ本塁打でリードを奪う。だが試合は延長10回にもつれこみ、無念の引き分け。優勝はならなかった。当時、試合時間が4時間を超えていれば、新しい延長イニングには入らない規定があった。

「あのときは本当に悲しかった。野球という競技を、時間で区切るというルールはアメリカにはないからね」

雪辱を期して臨んだ89年。近鉄は、西武、オリックスと三つどもえの戦いを展開する。近鉄は10月12日、首位西武を1ゲーム差で追い西武球場(現メットライフドーム)で直接対決ダブルヘッダーに臨んだ。この2試合でB砲は、神懸かり的な働きを見せる。第1試合の4回、6回と2打席連続本塁打のブライアント氏に対し、西武は8回、急きょ渡辺久信を救援に起用した。大の苦手にしていた天敵から、この試合3本目の決勝ソロを右翼席に運んだ。第2戦でも、1打席目に敬遠された後、3回に勝ち越しソロ。4打数連続本塁打の離れ業だった。

「それまでの2年間で私は、渡辺をどうしても打てなかった(前試合まで39打席で14三振)。最後の最後で打てて、優勝を確信した。あまりに興奮していて、あの日の後に何をしていたか、思い出せないほどだよ」

89年の近鉄は優勝を飾り、ブライアント氏はMVPに輝いた。在籍は8年に及び、本塁打王3度、打点王1度、そして最多三振5度。93年の204三振をはじめ、プロ野球の年間三振記録の4位までを独り占めしている。超個性派の存在感は、助っ人の歴史に大きな足跡として残る。今月25日には京セラドーム大阪でのオリックス-日本ハム戦で始球式を行い、その後ファンとのイベントに参加する。

「当時は大阪・阿倍野に住んでいたよ。今は高いビルも建って、だいぶ変わったようだね。デーゲームの後は、よく近鉄電車で帰ったものだ。車内でいつもファンの皆さんに囲まれ、握手もしたし、サインも書いたなあ。また皆さんと会うのが待ち切れないよ」

◆89年10月12日西武戦ダブルヘッダー 首位西武を1ゲーム差で追う近鉄が、最終決戦のため西武球場へ乗り込んだ。第1戦は3回まで0-4の劣勢。近鉄は4回にブライアントが郭泰源から46号ソロを放ち反撃開始。5回に1点を失ったが、6回にはブライアントが郭泰源から47号満塁弾を放ち同点に。西武は8回、ブライアントを徹底して抑えていた渡辺久信を救援に起用。乗りに乗っているブライアントは苦手をものともせず、決勝48号ソロを放った。続く第2戦でも2-2の3回、高山郁夫から49号ソロ。勢いづいた近鉄は西武に連勝し、一気に優位に立った。本拠地藤井寺に戻った近鉄は同14日、ダイエーを下して9年ぶり3度目のパ・リーグ優勝を飾った。

○…ブライアント氏を語る上で欠かせないのが、史上初の「認定ホームラン」だ。90年6月6日、東京ドームでの日本ハム戦。4回の打席で、角盈男から放った一打は、天井からつり下げられていた、地上44・5メートルのスピーカーを直撃! 球場特別ルールにより、本塁打となった。推定飛距離は170メートル。白い歯を浮かべながらダイヤモンドを一周した。当時を振り返り「あのときはポップフライかと思った。まさかホームランになるとはね。びっくりだったよ」と懐かしんだ。

◆ラルフ・ブライアント 1961年5月20日、米国ジョージア州生まれ。エイブラハムボールドウィン農大から、81年ドラフト1巡目でドジャースと契約。85年9月メジャー初昇格。88年5月に中日入りし、同年6月近鉄へ移籍。90年に記録した31試合連続三振は現在もパ・リーグ最長。93年9月7日の日本ハム戦での1試合9打点はパ3位タイ。応援歌は「仮面ライダーV3」のテーマだった。現役時代は185センチ、94キロ。右投げ左打ち。05年には、近鉄と合併したオリックスの打撃コーチも務めた。