元中日監督の高木守道氏が17日午前、急性心不全のため死去した。78歳だった。1960年(昭35)に県岐阜商から中日に入団。現役通算2274安打、369盗塁、打率2割7分2厘の成績を残した。バックトスなど華麗な守備を見せ、二塁のスペシャリストとして脚光を浴びた。監督時代の94年には巨人と同率首位で並び、最終戦で優勝を争った伝説の「10・8」決戦で敗れるなど悲運の指揮官としても記憶される。通夜、告別式は近親者のみで営まれる。

   ◇   ◇   ◇

「ミスタードラゴンズ」と称された名手が、この世を去った。

中日から初めて名球会入りし、2度指揮官を務めた高木守道氏が、17日午前に息を引き取った。12日にも地元CBCラジオの番組に出演。パーソナリティーを務める板東英二氏から「お変わりございませんか」と聞かれ「ええ、お変わりございません」と答えていた。現役時代の思い出を披露するなど、精力的に活動していた。昨年12月に行われた立浪和義氏(50)の野球殿堂入りパーティーや、中日ドラゴンズOB会にも元気な姿を見せていた。

高木氏は60年に県岐阜商から中日に入団。63年から二塁手のレギュラーとなり、現役通算2274安打、369盗塁、打率2割7分2厘の成績を残した。盗塁王3回、ベストナイン7回。特に二塁守備ではバックトスなど華麗な守備を披露してファンを魅了。当時エースだった星野仙一氏(故人)に「誰が日本で一番守備がうまいかと言えば、間違いなく高木さんだ。申し訳ないが、他の名手とは次元が違う。何度助けられ、勝たせてもらったか分からない」と言わしめた。

80年の引退後は、2軍監督、1軍守備コーチなどを歴任。91年オフに第1次星野政権の後を受けて監督に就任。94年には長嶋茂雄監督率いる巨人と同率首位で並び、シーズン130試合目の最終戦をナゴヤ球場で迎えた「10・8決戦」を指揮。勝った方が優勝という決戦で敗れた。12年からも2年にわたって指揮を執ったが、リーグ優勝はかなわず、ユニホームを脱いだ。

ミスターとの縁は深く、野球人生の節目で幾度となくクロスした。

県岐阜商時代に立大の学生コーチとして指導を受けた。「君、プロでやるんだったら二塁を守りたまえ」と言われ、忠実に守った。1番を打った74年には巨人のリーグ10連覇を阻止。優勝パレードに参加したため、長嶋の引退試合(中日戦)に出場できず、電話で非礼をわびた。

守備の素早さから「忍者」、口数の少なさから「むっつり右門」、怒りやすく「瞬間湯沸かし器」などと呼ばれた。ただひたむきに野球と向き合い続けた孤高の天才が、突然旅立った。