球界のドンとして君臨し続けた野村克也氏。野球についての知識はもちろん、豊かな人間味で多くの思い出と財産を残した。歴代の担当記者が悼む。

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野村さんの故郷、丹後半島にある京都府京丹後市網野町に、その功績を示した「野村克也ベースボールギャラリー」はあった。

「敵は我に在り 希望に起き 努力に生き 感謝に眠る」

達筆で、迫力のある語録が掲げられた空間は、日本海を望む田舎で新聞配達をしながら育った少年時代からプロの世界でのし上がっていく青春が詰まっていた。

監督としての絶頂期は野村阪神が誕生した1998年オフだろう。その年のシーズンまでヤクルトを率いた野村さんの同じセ・リーグ球団への電撃就任は衝撃的だった。

最高首脳の久万オーナーがわざわざ東京に赴いてホテルで交渉したのは超異例。就任会見の席上、高田順弘社長から「野村さま」と呼ばれるほど奉られた。

試合前は連日メディアに対応し、在阪スポーツ紙は技術論から人生訓までのコメントが「野村語録」として掲載した。それは企業マニュアルとして利用されるほどの特異現象を生んだ。

ただ、チーム練習が行われる現場に出ない日もあって、ジョンソン、ブロワーズらと会話のない状況に「もっと助っ人とコミュニケーションをとるべき」という論調の記事を執筆した。

すると野村さんは「沈思黙考」と言ってしゃべらなくなった。実は、阪神メディアから「野村語録」が消滅した裏で、横浜市内ホテルの高層階にあったスイートルームに呼ばれる。

そのうち真っ赤なドレスのサッチーこと沙知代夫人が現れた。「あなたね、うちのダンナの悪口を書いたの?」と突っ込まれたが、ある人物を介して、すぐに打ち解けた。

「リーダーとは?」と聞くと「思想をもって戦うことだ」と言う。「絶対的強さのチームには、相対的強さで戦いたい」。監督の意図がどこまで浸透するかにあると説かれた。

低迷する暗黒時代のチーム体質と方向性、本社、フロント、補強の在り方など、タテジマ再建策について熱く意見をぶつけ合ったのが忘れられない。

最後に沙知代夫人から名刺に直筆で「笑って 美しく」とつづられ、「ダンナをよろしくね」と言われた。野村さんからは「変わった記者やな」と和解して別れた。理論派の名将に人間味を垣間見た夜だった。【00、01年阪神担当キャップ=寺尾博和編集委員】