#開幕を待つファンへ プロ野球で最後の「隠し球」が記録された試合を知っていますか? 09年6月30日のソフトバンク-オリックス戦。オリックスの山崎浩司が成功し、広島時代を含めセ・パ両リーグで達成した。あれから11年。“くせ者”は現れず、令和の時代を迎えた。証言からウルトラCの極意に迫る。

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09年6月30日のソフトバンク-オリックス戦。山崎の成功を最後に、プロ野球から「隠し球」が消えた。プロ野球創設時に活躍した苅田久徳が初めて成功したとされ、70年に東映の大下剛史がシーズン4度、83年には広島アイルランドが3度記録。90、00年代には巨人元木大介、横浜佐伯貴弘らが記録したが、今やめったにお目にかかれないウルトラCとなった。

山崎氏に聞こう。プロ入り時、コーチから「次のプレーを4、5個は頭で考えておくように」と教えられ、1球1球、打球や動きをイメージしながら守った。1つのアウトを取った後に「次のアウトはどうする?」と思考を巡らせる中で、オプションとして隠し球に着想した。成立する条件として「相手が気付いていないこと」「自軍の投手が察知すること」を挙げた。

テレビで追えないほど鮮やかに決まった、くだんの場面をひもといていく。2回無死一塁。ソフトバンク本多が一塁前へ犠打を成功した。二塁手の山崎は一塁ベースカバーでボールを捕球。「ベースコーチ、ベンチをチラチラ見ながら」二塁方向に向かい、「いける」と決断した。走者に目を移した時、高校の先輩の田上だったことに気付き「すみません」とタッチした。

投手の近藤にはアイコンタクトで知らせた。ボールを持たず、プレート付近にいればボークが宣告される。ボークを防ぐとともに、ボールの交換やタイムを取ることを避けることも必須条件。「それが直接的な理由かはわかりませんが」と前置きし、続けた。

山崎氏 最近は、打者がいろんな所に防具をつけるので、外す時にタイムをかけるケースが多くなっているように感じます。投手がボール交換を要求するのも増えたかなと。

オリックス時代の失敗例もそうだった。成功するかに見えたが、山崎の動きに気づかなかった投手が審判にボール交換を要求。プレーが止まり、ボールをファウルゾーンに投げ返した。広島在籍時の07年8月15日の巨人戦、阿部慎之助を仕留めた時は、ブラウン監督が当初気付かず。「二塁ベースに寄りすぎてないか」と守備位置を一塁寄りに指示しかけた。

山崎氏 成功した2回は送りバントのベースカバーの後でしたが、二塁方向に行く時はめちゃめちゃドキドキした。気付かれたら終わりなんで。目で周りを見ながら、気配は消して。

「4年に1回です」と五輪の周期に例えた。「1回やるとベースコーチもずっと見ていますし、(ソフトバンク)川崎からは『やまさん、ボール持ってませんか?』と疑われた」と笑った。オリックスでチームメートだった香月良太氏は「やった時に、ボークを取られないようにする練習をしていた」と回想。最高難度のワンプレー…背景には、周囲を含めたしたたかな準備がある。【久保賢吾】

 

◆山崎浩司(やまさき・こうじ)1980年(昭55)10月31日、大阪府生まれ。大産大付から98年ドラフト3位で近鉄に入団。04年の球団合併でオリックスに所属したが、同オフに広島にトレード移籍。08年にオリックスにトレードで復帰し、12年オフに西武にトレード移籍した。15年には楽天に移籍し、現役を引退。プロ17年間で通算518試合に出場した。

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◆見たら超ラッキー! ウルトラCのプレー

フォースボーク 走者が一、三塁の時に、攻撃側が使う。三塁走者に背を向ける左腕投手に対し、2人の走者が時差を使って連動して動くことで投手に動揺を与え、ボークを誘発し三塁走者が生還する。フォースは“強制”の意味。現在は広義となり、右投手の場合でも用いられる。最近の成功例は11年6月16日、広島-楽天戦。広島が6回2死一、三塁、打者前田健の時に成功させた。

ユー・ミー 走者が一、三塁の時、攻撃側が使う。一塁ファウルゾーン後方への飛球を一塁手が捕球した瞬間、一塁走者がスタート。挟まれるフリなど、一塁手の注意を引く。その隙を突き、三塁走者がタッチアップする。打球判断、走塁技術ともに超難解。

◆甲子園では プロで2度成功させた元木は、上宮時代にも甲子園で決めている。遊撃手で出場した88年春の3回戦、高知商戦の8回裏に1点勝ち越され、なお1死二、三塁で二塁走者をアウトにした。夏の大会では延長18回の死闘となった79年3回戦の星稜-箕島戦で、星稜・若狭三塁手が14回裏1死三塁で決め、サヨナラ負けのピンチを防いだ。87年3回戦では帝京のエース芝草宇宙(ひろし)が横浜商戦の9回表、1死一塁で大井一塁手に「やるか」と打ち合わせ。隠し球を成功させ、スコア1-0完封につなげるファインプレーとなった。97年には2年生ながらスラッガーとして注目された豊田大谷・古木克明が、2回戦の甲府工戦で二塁走者としてアウトになっている。