日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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パリからの悲しい知らせだった。フランス代表監督だった吉田義男(85年阪神日本一監督)が現地で指導する“橋渡し”をした前フランス日本人会会長・浦田良一が10月7日、パリ市内の自宅で亡くなった。81歳だった。

次女薫から「コロナによる禁足令期間も乗り越えて、体力づくりにも専念してまいりましたが、あの元気な父でさえ、がんの猛威には勝てませんでした」と連絡を受けた。1年前にパリの自宅を見舞った際の笑顔が浮かんだ。

1985年に阪神を率いてリーグ優勝、日本一を遂げた吉田は2年後、最下位に沈んだ。失意に陥った吉田が知人の山崎茂樹(同和火災本社企業部長)を通じて京都・上七軒の料亭で紹介されたのが、日立フランス社長で大阪・福島出身の浦田だった。

75年に現地トップに就いた浦田は、在日企業人の中で最古参の一人。05年から17年まで会長として日本人会を束ね、パリ日本語補習校の創立から校長、NAC(日本人会アーティストクラブ)会長だった。09年に旭日中綬章を叙勲された。

史上最強ショート、日本一監督の看板を背負った吉田がわざわざ野球後進国で指導するのはプライドが傷ついたはずだ。しかし熱狂的な阪神ファンで、日仏交流に情熱を注ぐ浦田の熱意が吉田を口説き落とす。

89年に渡欧した吉田はクラブチームPUC(パリ・ユニベルシテ・クラブ)の技術顧問を経て、7シーズンにわたってナショナルチーム監督を続けた。仏スポーツ専門紙「レキップ」には「プチ(小さな)サムライ」と紹介された。

現地ではPUC副理事長で、エミトラベル社社長・古川秀雄(故人)にも支えられた。連日ノックで上達するフランス人とは信頼関係で結ばれていく。五輪出場はかなわなかったが浦田と古川の2人はかけがえのない存在になった。

吉田たちは欧州から20年東京五輪の野球・ソフトボール復活への水面下活動もアシストする。パリでは隔年で国際大会「吉田チャレンジ」が開催されるようにもなった。日仏野球をつないだ浦田にはフランス野球連盟も弔意を示した。

「コロナ騒動が終わった後の新しい世界が、どのように変化するのか、心配しながらも大きな期待を寄せています。価値観、宗教観にも変化が起こるはずで、そこで初めてウイルスに対抗できる世界共通の新たな理念が生まれるのではないでしょうか。私の余命の間に出来なくても、そうならなければならない」

最後に浦田から届いたメールには、未来へのメッセージが込められた。野球に国境がないことを教えてくれた企業戦士。新型コロナウイルス拡大が収束した後に「お別れ会」が催されるという。(敬称略)