<明大野球部の同期 小菅隆夫>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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今年1月、明大の同級生で作った「二十歳の会」のメンバーは、星野の墓前に手を合わせた。「ちょっとすっきりしたかな」。遊撃手でコーチャーだった小菅隆夫(群馬・渋川高卒)は親友を懐かしんだ。

「眼光鋭く、何をやってもすごい。でも僕はいっぱい遊んだり、宴会やったりとかのほうが思い出が多いです。ケンカは同級生とはやらない。上とやる。それにプロレスごっこが好きだったね。仙ちゃんが一番強くて、あいつにかかると体をガタガタにされちゃうんですよ」

小菅が「懐に入るのがうまかった」と明かしたように、人の心をつかむのが巧みだった。

「御大(明大・島岡吉郎監督)も星野がかわいくてしょうがなかったんじゃないですかね。俺なんか島岡さんの足音を聞いただけでびびった。めんたまが血走ったような怒り方で怖いんです。でも星野はさーっと入ってく。怖い人間に対して人懐っこさがあったんでしょうね」

究極の“オヤジキラー”だった。中日時代は、オーナー加藤巳一郎に、監督では中日水原茂、巨人川上哲治ら、またトヨタ会長だった奧田碩、大京観光(現大京)創業者の横山修二ら、経済界のトップにもかわいがられた。

「あれだけの人脈ってなかなか作れませんよ。人間としての基本的なものは御大に教わったと思います。でもリーダーの資質を身に付けたのは世の中に出てからでしょうね」

会社経営に携わった小菅は楽天監督に就く際も相談を受けた。政財界とのネットワークがリーダーとしての能力をさらに伸ばしたという。

同じ岡山出身で、自民党の大物として国政を先導した加藤六月は、大学時代から「オヤジ」と呼ぶ親密な間柄だった。政界では安倍晋三ともつながったし、マスコミではフジサンケイグループ代表の日枝久らとも親交があった。

「選手、スタッフの人生相談、家の売却、女性問題、残務整理などアクシデントを解決するのは並の監督はできません。監督だけでなく企業の経営者、政治家でも通用したでしょうね。だってアンテナをいっぱい持ってた。それにピンポイントが分かってて、それを間違わないんですよ」

星野の“別の顔”を知る小菅は軽井沢の別荘でコテを持って鉄板で焼きそばを作ってくれた背中が忘れられない。「がんじゃないかなと思った」。遊撃のポジションから見た気迫の後ろ姿を知るものとしては信じ難い現実だった。別れ際に星野から言われた。「バイバイ」。同期の桜。「仙ちゃん、早すぎるよ…」。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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