<BC信濃取締役会長 飯島泰臣氏(下)>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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監督として中日、阪神、楽天を優勝に導いた星野仙一氏(享年70)は、プロアマ一体化を熱望していた。明大の後輩で、独立リーグ、ルートインBCリーグ「信濃グランセローズ」で取締役会長を務める飯島泰臣氏(55)は、野球界の将来像を打ち明けられていた。

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明大の後輩だった飯島は軽井沢の別荘で、星野から楽天監督に就任した際のエピソードを聞いていた。

「先輩(星野氏)の話だと、三木谷(浩史)オーナーとすっぽんを食べたらしいんです。『どうしたんですか?』と聞いたら『どうしたって、お前はほんま勘の悪い男やな』とあきれられました」

11年に監督に就任し、13年に球団初のリーグ優勝、日本一に導いた。

「すっぽん料理の最初に出てくる生き血って、アルコールで割ってますよね。先輩は下戸なのでそれを1杯飲んだだけでかなり酔って、ついには立てなくなった。だから受けるしかなかったんや、といたずらに笑ってたのを思い出しますよ」

そんなジョークを交えながら語り合うほど、親密な間柄だった。

「飛行機のファーストクラスに座ろうとしたら、前の乗客がCAにクレームの最中。やっと終わったと思い着席。するとその乗客が隣の席でアンケート用紙に先のクレームを書き出した。『おい、また書くんか! 男らしくないやろ!』とぶち切れた。どこまでも“星野仙一”なんです」

松商学園、明大と進んだ飯島は、戸田建設株式会社で修業を積んだ後、実家の飯島建設に入社し、15年3代目社長に就任。「信濃グランセローズ」の立ち上げにも関わり、現在は球団の取締役会長を務めている。飯島らが決めた球団設立の条件は4点。

(1)ほぼ専有で使用可能な球場確保

(2)背骨になる企業の確保

(3)NPB球団で幹部級人材の招聘(しょうへい)

(4)県内全市町村首長の後援会顧問就任

全てをクリアして“おらが球団”を地域に根付かせているところだ。

「NPBに行く夢をかなえさせたい。でもそれと同じくらい立派な企業に就職してほしいとも思っています。チーム強化に固執し、いたずらに選手を引っ張ってはいけない。NPB、社会人を目指す一方で、あきらめさせることも必要です。高卒5年、大卒2年が目安で、上に行くことができないならリセットさせ、次の人生に導く。そういう矜恃(きょうじ)を持っていないと独立リーグ球団を運営する資格はないとも思ってます」

今年のドラフトでは、ヤクルトから赤羽由紘内野手(20)が育成2位で、松井聖捕手(25)が同3位で指名された。また、DeNA佐野恵太の弟悠太外野手(24)が日立製作所入り。飯島は独立リーグを“受け皿”と考えず、確固たる信念をもった球団であることを心掛ける。

「先輩は常に、野球界が1つにならないといけないと話していました。NPBのコミッショナーは法曹界出身が多いが、ビジネスマンが理想的だと。その下に、元プロとコンプライアンス専門の2人の副コミッショナーを配置した組織化を考えていた。高校、大学、社会人、プロに、独立リーグも含め、野球界全体が串刺しの組織になって一緒に底上げをしなきゃダメだと力説していましたね」

飯島は25歳のときに実父で、先々代社長の典男を脳出血で亡くした。

「父親を亡くしたときと同じくらいショックでした。いやもっとかも。18歳も年下の後輩を粗末にしない。時には怖いオヤジで、面倒な兄貴。それでいて友達みたいに接してもくれる。真剣に叱ってくれたし、約束と違うことをしたらしっかりとただしてくれた。先行きの見えないコロナ禍で、今だれと話してみたい? と問われたら、間違いなく星野仙一先輩と答えます。もう1度、会いたい」

勝利を追求するだけでなく、球界の将来ビジョンも描くまれな存在が、星野だった。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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