1988年(昭63)10月19日、近鉄は逆転優勝をかけてロッテとのダブルヘッダーに臨んだ。その第1試合。9回の勝ち越し機で、代走の佐藤純一さん(60)は三本間でアウトになった。梨田昌孝の決勝打に救われて第2戦に夢をつないだが、無念の10回引き分けで優勝の夢は消えた。佐藤さんは90年の引退後、パ・リーグ審判に転身し、昨年11月6日のオリックス-日本ハム戦を最後に退任した。球史に残る大激闘、審判人生に導いてくれた仰木彬監督との思い出を振り返る。【取材・構成=堀まどか】

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冷たい土からどう起き上がり、ベンチに帰ったのか。はっきりした記憶が、佐藤にはない。負けられない第1試合。3-3の9回1死二塁で送り出された必勝の代走が、アウトになった。

佐藤 打者のライナーに飛び出してアウトになる。そんなダブルプレーは避けたかった。飛び出したら試合終了。それを頭の中で繰り返していた。スタートがだいぶ遅れたんです。

延長はない。勝ち越すしかない9回。淡口憲治が長打で1死二塁の好機をつくった。その代走が、足のスペシャリスト佐藤だった。

ロッテは牛島和彦を投入。守護神から、鈴木貴久が火を噴くようなライナーを右前に放った。だが、打球の勢いが強すぎた。右翼手からの返球が三本間で待つ捕手・小山昭吉のミットに収まったとき、佐藤は三塁を回っていた。

佐藤 ホームに行くのは無理。でも、ランダンプレーで(捕手に)勝てると思った。サードに戻れると思った。それが自分の気持ちだけ先に行って、足が全然動かなかった。

重圧が黄金の足を鉛に変えた。三塁に向かって飛ぶ佐藤の足を、ミットをはめた捕手・小山の左手がとらえた。ふらつきながら戻ったベンチで、いつもは陽気な仲間が声をなくしていた。「とんでもないことをした」と打ちのめされた。

すべてを救ったのは、代打・梨田だった。佐藤憤死の間に鈴木が二塁まで走り、梨田は現役最後の安打を中前に運んだ。鈴木がホームにひた走る。ストライク送球が返ってきた。

佐藤 タイミング的にはアウトでした。でも、うまいこと回り込んだ。「セーフ!」って声が聞こえたとき、体の力が抜けました。あの勝ち方で、勢いからしたら、絶対に近鉄。優勝するってこういうチームなんだと思いました。

だが第2試合。4時間打ち切りの「時間のカベ」に阻まれ、延長10回4-4で引き分け。祝勝会を開催予定だった東京・高輪の宿舎で、チームは盛大な残念会を開いた。飲んで笑って、近鉄らしい最後の宴だった。翌日の帰阪後、熱闘の盛り上がりに仰天した。

佐藤 だから俺のアウトをみんなが知ってるんやなと。よう言われたんです。『あ、あの佐藤さんですか』って。あのときはすごくいややった。しんどい思いもした。夢にも見て、落ち込んだ。でも、やがてあれが誇りに思えるようになったんです。あの10・19が。

そう思えるようにしてくれた1人が、仰木だった。

佐藤 引退後、仰木さんに「10・19のDVD買ったか?」て聞かれたことがありました。「あれ、お前が主役みたいなものやから買わなあかんやろ」って。

仰木の04年の殿堂入りを祝う会に佐藤も呼ばれた。来場者に仰木は「10・19の選手」を紹介。だれ1人欠けても、記憶に残る試合にはならなかったと示した。

次の人生への扉を開けたのも仰木だった。90年、佐藤の引退の決断を聞いた仰木は「審判をやらんか?」と言い出した。

佐藤 審判に転身された先輩にも相談し、最後は嫁さんが「またグラウンドに出られる仕事がいいんじゃない」。ああ、それだったらお世話になろうかなと。

再び、厳しい世界に身を投じた。自信を持った判断でも、思い返して眠れなくなる夜は何度もあった。「普通にやって当たり前」の緊張感に、神経をすり減らした。それでも毎試合懸命に勤め上げ「悔いはない」と思える引退を迎えることができた。

佐藤 あのとき、どういうつもりで仰木さんが「審判やらんか」と言われたのかわからないんです。ぼくの性格を見てくれてたのかな、この性格なら、あとから考えたら審判なんて無理やったかなと思いながら。

理由は、聞けずじまいだった。

オリックス、近鉄の合併初シーズンを翌年に控えた04年秋、仰木は現場復帰。当時の監督最高齢の70歳の指揮官は、がんと闘い続けていた。スカイマークでの05年9月22日の日本ハム戦。球審は佐藤だった。

佐藤 あの日、仰木さんに初めて「純ちゃん」と呼ばれたんです。

「純ちゃん、わし今日な、もう動かれへんから、選手交代とか全部(投手コーチの)神部に頼んでるから」と仰木は告げた。優しい、か細い声で。「わかりました、監督。わかりました、わかりました…」。そう返すのが精いっぱいだった。真夏にグラウンドコートを着込み、サングラスで目を覆った姿がよみがえった。そうまでしてグラウンドに立っていた気迫を、気力を受け止めた。12月15日、仰木はこの世を去った。近鉄もオリックス・バファローズに姿を変えた。それでも今なお「10・19」は残る。佐藤がプロ野球選手として生きた証しは、残る。

「純ちゃん」と呼んだ優しい声。もう1度「おい、佐藤!」の野太い声を聞いて、背筋を伸ばしてみたかった。(敬称略)

◆佐藤純一(さとう・じゅんいち)1960年(昭35)7月18日、秋田県生まれ。大曲(秋田)から社会人の秋田相互銀行を経て、82年ドラフト3位で近鉄入り。外野手。84年3月31日日本ハム戦(後楽園)で1軍デビュー。85年には自己最多の88試合に出場。90年で引退し、91年2月1日にパ・リーグ審判部に入局。18年8月17日のオリックス-ソフトバンク戦(京セラドーム大阪)で、審判として2000試合出場を達成した。今年から台湾で審判員の指導を行う。