日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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1984年(昭59)は上田が導いた阪急ブレーブスの球団史にあって最後の優勝になった。4年後の88年、オリエント・リース(現オリックス)に球団譲渡されるなど、だれもが想像だにしなかった。

広報担当の小川友次(阪急電鉄常務取締役、宝塚歌劇団理事長)は伝統球団の“栄光と落日”に触れてきた。慶大野球部出身で大学4年の78年、上田が日本シリーズで1時間19分の猛抗議にでた後楽園での一戦を観戦している。

すでに阪急電鉄入社が内定していた。小川は同大学監督の福島敦彦のもと、選手兼新人チーム監督だったが、激しく采配を振る上田の執念に感じ入った。後に球団に出向し、上田と出会ったのは縁だった。

「特に印象深いのは、ものすごい読書家だったことです。キャンプ、遠征先には必ず数冊の本を持参していました。それを読み終えるといただくのですが、今思えば将来のための教えだったのかもしれませんね」

上田から託された著書のなかに、人間学を説いた安岡正篤(やすおか・まさひろ)の「東洋思想十講 人物を修める」があった。経営する立場になった今もこの考えを肝に銘じている。

「上田監督は熱い人でしたが、冷静に判断もしました。それは著書にある『何事も目先にとらわれず俯瞰(ふかん)してみる』『できるだけ多面的にみる』『枝葉末節にとらわれない』という三原則から通じるものです」

小川はその後、阪急阪神ホールディングスの事業部門の中核にあたる宝塚大劇場総支配人、梅田芸術劇場社長などを経て、15年に宝塚歌劇団理事長に就任する。集客力のV字回復に貢献し、稼働率100%超のエンターテインメントとしてにぎわいを取り戻した。

小川は05年愛知万博でトヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎と交わした会話を引き合いに出した。パ・リーグの観客動員数が低迷した時代を知る小川は「あのトヨタさんでも1台の車もおそろかにしない。すごい危機感です。うちも同じで1つの作品にこだわる。人気というのはオバケです」という。

「宝塚にとっての最優先はいい作品を作ることです。うちの場合は演出家も自前で育てて、生徒がお稽古を続け、クオリティーを上げる。それをお客さまに楽しんでいただく。上田監督もどうしたらファンが足を運んでいただけるかを考えてたし、マスコミにも協力的でした。あるところで人気がでても、それが落ち込むと取り返すのに時間がかかります。おごってはいけない。一丸となって劇団を引っ張ってきたつもりです。それは上田監督の姿勢から教わったことでもあります」

阪急は創設から11人の監督を輩出した。上田の監督通算1322勝(1136敗116分け)は球団史上最多で、プロ野球監督歴代7位。小川は「福島さんと上田さんは人生の師です」という。そしてリーダーの条件について「先頭に立って率いることだと思います」と知将の姿をだぶらせた。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

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